祭 神:勾当内侍 説 明:内侍は、藤原行房の妹で、後醍醐天皇に女官として仕え、後 に新田義貞の妻となった、天下一の美女と謳われた女性です。 延元元年(西暦1336年)、義貞は、足利高氏軍と戦った のですが、敗色が強く、恒良親王・尊良親王を奉じて越前に 向かう途中、内侍を、この今堅田に残しました。 義貞は、その後、延元三年七月二日に越前国藤島で戦死して しまうのですが、そのことを伝え聞いた内侍は、悲しみのあ まり琴が浜に身を投げたのだそうです。 内侍の命日は、旧暦九月九日。菊の節句です。 住 所:滋賀県大津市今堅田2丁目 電話番号: ひとこと:この美女は、後醍醐天皇から、新田義貞への武勲に対する、 「ご褒美」だったようなんですが、彼女に熱をあげちゃった、 義貞は、戦に出遅れちゃったのさ・・・と言われてます。 勿論、彼女が悪いわけでは、全くなくて、何が悪かったのか、 と聞かれたら、「タイミングが悪かった」と答えるしかない ・・・と思うんですが。 戦争ってのは、大体にして、「タイミング」が重要だったり するんですね。 それにしても、勾当内侍と新田義貞の新婚生活は、どのくら いの期間だったのでしょうか? 義貞の訃報に、身投げをしてしまう内侍は、どんなに情熱家 だったんでしょうね? 美女のことを、「傾国」なんて言いますが、内侍は、正しく 「傾国」だったわけです。 世に三大美女を、「クレオパトラ」「楊貴妃」「小野小町」 と言いますが、ほんとのところ、「小野小町」を、「勾当内 侍」に変えてもいいかも知れません。「傾国トリオ」なんて。 ただ、内侍の、クレオパトラや、楊貴妃と違う点は、村人、 国民達に愛されたことです。 内侍が身投げした後、村人は哀れに思い塚を築き、明応六年 (西暦1497年)、内侍の百五十年遺忌の時に塚の場所に、 神社を建立し、野神神社と呼ぶようになったのだそうです。