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小夫天神社

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  祭  神:天照皇大神 天兒屋根命 菅原道眞 品陀別命 大来皇女命
  説  明:案内によりますと、
      「往古、小夫郷は、笠縫邑と称せられ、当天神社天照皇大神官
       御鎮座は、
       第十代崇神天皇即位六年、秋九月二十三日、神人分離の一大
       変革により、皇女豊鍬入姫命が皇祖を奉侍し給うた最初の霊
       跡であり、当神社は笠宮山と称し、第四十代天武天皇即位二
       年夏四月大来皇女命が化粧川で祓され、宮を泊瀬斎宮と為し、
       皇祖天照皇大神を奉斎せられ、元伊勢として今日に伝えられ
       ている」
       とあり、
       平成祭礼データの小夫の天照皇大神社由緒略記によりますと、
      「天照皇大神社は、桜井市大字小夫嵩方小字山ノ神に鎮座し、
       祭神は天照皇大神、配祀神大山祗神を祀る。
       社伝に、天照皇大神宮鎮座は、小夫天神社に座、天照皇大神
       宮の御分靈を遷し奉りしと伝う。
       小夫嵩方分離は元享年間の頃といい伝う。
       天照皇大神社御由緒調査書、明治三十九年八月調によると、
       元享元年(元享年間は四年)より明治三十九年まで604年
       を経るとある。
       当社の境内に杉一丈七尺廻りの大木あるを以て按に三百年以
       後の神社たる事明らかなりと記録されている。
       小夫嵩方は、真平山脈の頂上にあたる地勢により嵩方といい、
       大和川の源で美わしい山紫水明の地である。
       古代倭における磯城から山辺の境界線上にあたり、大倭郷と
       呼ばれた高天原の聖地で、天照皇大神社の敷地山ノ神につづ
       く笠神は、倭笠縫邑の聖地にして小夫の笠神と並び元伊勢縁
       の地である。
       天照皇大神の鎮まる古代の小夫地方は元伊勢の発祥地であり、
       御山と称せられし奥の鎮は中岳と並ぶ神山で、巨岩があり近
       隣の割石神社とは古代の磐座である。
       神の郷の故地として倭、大和の発祥地であることから近郷に
       はない社名であり、神聖なる地形から天照皇大神社として奉
       斎されし所以である。
       往時の神の郷は磯城峡谷の隠国とも称されてきた。
       泊瀬川を逆り峠を越え小夫より寝地蔵、奥の鎮、笠神、割石、
       真平山、中岳、貝ヶ平山に通じ、山岳信仰、太陽と水神の信
       仰盛んなりし跡がうかがえるのである。
       貝ヶ平山、真平山は大倭郷の線上に位置し、太陽神影向の山、
       日の出の山と称されてきた。真平山脈より出づる細流は清き
       流れの渓流となり、万葉の昔は聖なる山の聖水の流れで神の
       河日の河と呼ばれた泊瀬川は、大和川となって豊富な水資源
       は潅漑用水として、水穂国として農業に大きな役割を果し、
       農林産物の宝庫となった。」
       とあります。
  住  所:奈良県桜井市大字小夫神前田参千百四拾七番地
  電話番号:0744−48−8344
  ひとこと:境内には、
      「笛吹奥宮笠神の聖地
      『天照す神の隠れる戸をあけて
         日の出にかへす笛吹の神』」
       と刻まれた石碑がたっています。

       また、一の鳥居の側に
      「倭笠縫邑旧跡伝承地」という看板があり、ここが、所謂、元
       伊勢の一番目の神社であることがわかります。

       日本書紀からそのくだりを抜粋しましょう。
      「崇神天皇五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以
       上に及ぶほどであった。
       六年、百姓の流離するもの、或いは反逆するものあり、その
       勢いは徳を以って治めようとしても難しかった。それで朝夕
       天神地祇にお祈りをした。これより先、天照大神・倭大国魂
       の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の
       勢いを畏れ、共に住むには不安があった。
       そこで、天照大神を豊鋤入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀っ
       た。よって堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。
       また日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。
       ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りするこ
       とができなかった」

       倭大国魂とはどんな神様なのか、この神社とは関係ないので
       すがちょっとだけ。

       この神様は、奈良県天理市新泉町鎮座の大和神社の主祭神で
       あり、別名は大地主神とも言うと説明されています。
       名前からすると、大国主命の別名?と思うところです。
       ただ、この後、それでも続く災害に天皇が占いをたてられる
       と、「倭国の域の内にいる神で、名を大物主神」と名乗る神
       が現れ、「我を祀れば国は平らぐ」と言ったということが書
       かれています。

       大国主の別名とされる大物主命と倭大国魂が同一神ならば、
       なぜまた出てくる必要があるのでしょうか。

       ってことで、似てるけど別神、としときましょう。

      「大国」「大物」「地主」などの名前は、多数の神様の尊称と
       してくっついてもおかしくないですから。

       さて、笠縫邑ですから、天照大神を託されて、伊勢まで巡廻
       した倭姫か、この地に天照大神を祀った豊鋤入姫命について
       見てみたいところなんですが、ここに大来皇女の名前があっ
       たので・・・。
       すいません。この方について調べさせてくださいm(__)m       

       この皇女の名前はご存知でしょうか?

       持統天皇の甥にしてなさぬ仲の息子。
       人望が厚過ぎたため謀反人として殺されてしまい今は二上山
       に眠っている悲劇の皇子・大津皇子のお姉さんなのです。

       記録に残る最初の斎王なのだそうで、この点が、この地に天
       照大神を奉祀した豊鋤入姫や、倭姫と共通していますね。

       豊鋤入姫と、倭姫は、日本書紀では「斎王」という冠職を頂
       いてはいませんが、「斎王」の仕事は、
      「天皇の即位のたびに、占いで選ばれ、
       年三回執り行われる伊勢神宮の祭を行い、
       三節祭には、2泊3日で外宮と内宮に赴く。」
       役職名ですから、
       元伊勢に奉仕された二人の姫君は、事実上の斎王といえるで
       しょう。

       大来(大伯)皇女は、歌人としても有名で、
       弟を思って詠んだ、
      「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
        見すべき君がありといはなくに」
       から、命日(大宝元年十二月月二十七日日)を「あしび忌」
       と呼びます。

       この歌は、弟の大津皇子が謀反人として殺されてしまった後
       に詠まれたものですね。

      「見せたいあなたがいないのに・・・」というのですね。

       この時、大来皇女は、19歳ぐらいだったはずです。
       この時代、姉弟は普通に会うことができたんですね。

       平安時代の姉弟(しかも皇女と皇子)って、御簾越しに、く
       らいしか会えなかったようなイメージがあるのですが、飛鳥
       時代はそうでもなかったのですね。

       いや、それよりもまず、平安時代なら、皇女が磯の上の馬酔
       木を手折る機会がそれほどなかったでしょうね。

       ・・・と、本題から逸れてしまいました。

       この大津皇子と大伯皇女については、有名ですが、少し説明
       しましょう。

       大津皇子は、天智天皇の娘・大田皇女と天武天皇の皇子です。
       大田皇女の妹にもあたる、持統天皇(この時はまだ讃良皇女)
       と天武天皇の皇子である草壁皇子が西暦662年の生まれ、
       大津皇子は663年、1歳しか違いません。

       当時の皇后であった讃良皇女の息子である草壁皇子が立太子
       していますが、天武天皇の期待は、むしろ大津皇子にあった、
       と言われています。
      「日本書紀の天武天皇紀十二年二月一日、大津皇子が初めて朝
       政をお執りになった。」
       という文章が見えます。
       が、2年前
      「十年二月二十五日、草壁皇子が皇太子となり、一切の政務に
       預からせられた。」
       とあります。

       また、
      「持統天皇紀元年十月三日、皇子大津に沢語田の舎で死を賜っ
       た。時に年ニ十四。妃の山辺皇女は髪を乱し、はだしで走り
       出て殉死した。見る者はみなすすり泣いた。皇子大津は天武
       天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛され
       ておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文
       筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まった
       といえる」
       と、謀反人に対しては異例といえる誉め言葉があります。

       でも、日本書紀の内容だけでは、大津皇子が高邁な人格であ
       り、政治に関与されていたことはわかりますが、草壁皇子は
       もっと政治に関与していたことになります。

       またこんな記事も見えます。
       八年五月五日のこと、
       天武天皇は、皇后および草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河
       嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に
      「千年先までお前達が継承の争いを起こすことがないように、
       朝廷において盟約したいのだが」と問いかけますと、真っ先
       に、草壁皇子が、賛成するのです。
       この記事の受けとめ方はいろいろでしょうが、草壁皇子は、
       和を重んじる性格でいい奴じゃん、と私は思います。

       勿論、日本書紀は、大津皇子寄りではなく、草壁皇子寄りで
       すから、日本書紀を頭から信じることはできませんけれど。

       大津皇子の人格については、「懐風藻」「大津皇子伝」で描
       かれている性格が今日もっぱら喧伝されているようです。
       これは、日本最古の漢詩集といわれているものですが、編者
       は不明。

       日本書紀が草壁皇子寄りの書物というのがはっきりしていて、
       日本書紀における草壁皇子に対する表現が「嘘くさい」と言
       われるのに、懐風藻は編者がわからず、頭から信じられるの
       だとしたら、不公平ですよねぇ。
      「この頃の詩賦の興隆」を始めた大津皇子を、漢詩の編者が悪
       く書くわけないじゃないですか。
       いや、それよりも、謀反人として誅された大津皇子の肩をも
       って事実以上に誉めた可能性が高いと思いません?

       ただ、大津皇子について、これだけは確かだと思えるのは、
      「女にモテた」
       ということではないでしょうか。

       草壁皇子と恋の争いをした、と言われる石川郎女との和歌の
       やり取りがあります。

      「あしひきの 山のしずくに 妹待つと
           わが立ち濡れし 山のしずくに」

       つまり、あなたを待っていたから、山の雫に濡れてしまいま
       した。というわけですね。これに対して石川郎女は、
       
      「吾を待つと 君が濡れけむ あしひきの
        山のしずくに成らましものを」

       あなたが濡れたというしずくになりたいものです、と答えて
       います。なんとも熱愛されてますね。

       これに対して、草壁皇子が同じ石川郎女に贈った歌
      「大名児(おおなご)が 彼方野辺に 刈る草の
        束の間も わが忘れめや」

       つまり、大名児(大地子とも書くといわれます)が刈る草の
       一束ほどの間もあなたを忘れられない・・・という歌には、
       返事がありませんでした。

       なんといっても権力のあるのは草壁皇子の方でしょう?
       大津皇子の方が、魅力があったんでしょうね。多分。

       そんなわけで、大伯皇女にとっても自慢の弟だったんでしょ
       う。
       弟の謀反により大伯皇女は斎宮の任を解かれて、大和へ帰っ
       てくるのですが、その時、「君もあらなくに」という歌を二
       首詠んでいます。

      「神風の 伊勢の国にも あらましを
        なにしか来けむ 君もあらなくに」
      「見まく欲り わがする君も あらなくに
        なにしか来けむ 馬疲るるに」
       と。

       彼女にとって、弟の存在がどれだけ大きかったかわかります。

       一体男と女の関係ってのはいろいろありまして、恋の仲や友
       達関係だけではなく、母と息子、父と娘、姉と弟、兄と妹、
       なんていう血縁関係もあるわけですね。

       姉弟や、兄妹なんてのは、年が近いうえに、お互いに、「一
       番一緒にいた時間が長い」関係なわけですよね。
       親子だと、親にとっては、子は一番長く一緒にいたもの、で
       はないですからね。
       そこに、恋愛感情が絡んでこないんで、安全に、というか、
       気軽に話しを交わせる血縁関係だから、という事情もあった
       りして、
       ある意味、大津皇子の死により、喪失感が一番強かったのは、
       姉である大伯皇女だった、といえるかも知れないと思います。

       私情を交えますと、ですね。
       私には弟がいて、子供がおりません。
       子供の頃の、「お姉ちゃんやねんから弟守ってあげなあかん」
       って記憶がまだ残ってるんでしょうね。

       弟は、結構泣き所だったりします。これは、本当です。

       そんなわけで、私は大伯皇女には非常に同情っていうか共感
       しちゃうのであります。

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