祭 神:天手力雄命 説 明:境内看板は字が薄れてよく読めませんが、創建は景行天皇の時代 である旨が書かれていました。 また、香取神宮の第一末社になるのだそうです。 「日本の神々 白水社」によりますと、 「『下総国旧事考』で、清宮秀堅も『大戸ノ社ト云ハ、天の鳥船ノ 荒魂ナルベシ。大戸ノ社伝フル所の祭神ト、叛違スレド、其社の 伝ヘノ、手力男命ナリト云ハ、大戸ト云ニツキテ、岩屋戸ノ古事 ニモトヅケタル、推当ノ陋説ナリ』と書いている。」とあります。 住 所:千葉県佐原市大戸 電話番号: ひとこと:景行天皇について。 記紀では、東征の旅に出かけたのはヤマトタケルとなっています が、常陸国風土記では、景行天皇も東征に来ていることになって います。景行天皇は下見で、大和武は、実行したのかも知れませ んが。 それがわかるくだりをいくつか抜粋しましょう。 信太の郡より 「大足日子天皇(景行天皇)が浮島の帳の宮に行幸なされたが、御 飲料の水がなかった。早速卜いをする者に良いところを卜わせて 穴を掘らせた」 行方の郡より 「古くからの言い伝えによると、大足日子天皇が下総の国の印波の 鳥見の丘にお登りになり、しばらくとどまって遠くを見張らされ、 東のかたをふりかえっておつきの臣下に勅して、『海は青波がゆ ったり流れ、陸には丹霞がもうろうとたなびく。国はおのずとそ の中にあるとわが目には見える』と仰せられた。時の人はこれに よってこれを霞の里と謂っている。」 などなど。 勿論、常陸国風土記に登場する回数は、「倭武天皇」の方がずっ と多いのですが。 ・・・え?あぁ、そうです。 常陸国風土記では、ヤマトタケルは、「天皇」の称号がつけられ ているのです。 実のところ、景行天皇って、息子の手柄以外はとりたてて、目立 つ天皇ではありません。 景行天皇の父親は垂仁天皇。母は、皇后・日葉酢媛。 三人いた男兄弟の真中にあたります。 垂仁天皇は、ある日、長男の五十瓊敷命と大足彦尊(後の景行天 皇)に、 「何か欲しいものはあるか?」 と尋ねるのです。 すると、兄は、「弓矢が欲しいです」とごくごく常識的な返答を するのですが、弟は、「皇位が欲しいです」と、答えます。 「質問の意味考えて、答えなさい。」 と、父は言わず、「望みのとおりにしよう」と答えたもんだから、 お兄ちゃんを差し置いて、弟が皇位継承者になっちゃいます。 大体日本書紀の、このくだり読んでると、兄ちゃんは、「命」で、 弟は、「尊」ですからね。 特に活躍してなくても、長子でも末子でもない中子でも、何がな んでも、大足彦尊が時期天皇じゃなきゃダメだったんでしょう。 なんでか?ヤマトタケルのお父ちゃんだから・・・かも知れませ んねぇ。 さて、この神社の祭神です。 神社の説明のとおりでいけば、天手力雄命。 主体となる香取神宮の祭神とは関係の浅い神様になっています。 が、天鳥船命の荒魂だったら? 天鳥船命は、古事記に出てくる神様で、建御雷の随神なのです。 古事記に香取神宮の祭神・経津主命はでてきません。 経津主は日本書紀では活躍するのですが、そこには天鳥船命は でてきません。 こうなったらし方がない、先代旧事本紀に登場してもらいまし ょう。 えっと、こんな感じです。 「天の安川で神様が、葦原中国を平定するために遣わすのは誰が よいか、と相談した。 皆が、経津主神は勇敢で強いからこの神様がよい、と、意見が 一致した。 ところがそこに、武甕槌神が進み出て、 「経津主だけが丈夫(ますらお)だっていうわけですか?私が、 丈夫じゃないと、言うんですか???」と語気荒く言った。 そこで、経津主命に武甕槌神を副えて遣った。 あるいは、武甕槌神に天鳥船を副えた、とも言う。」 やはりここでも、経津主命と天鳥船命は一緒に遠征していませ んね。ただ、こういう不等式が成り立つかも知れません。 天安川の神様の基準で、勇敢さでは、 経津主命>武甕槌神>天鳥船 どういうことが言えると思いますか? また、「日本の神々」では、この大戸神社と香取神宮。そして、 鹿島神宮の摂社であり、岐神や天鳥船を祀る息栖神社が一直線 に並ぶことに言及しています。 香取神宮と、天鳥船の関係は、記紀や旧事紀には出てきません。 わざと、関係をはぐらかしているようにも見えます。 言い方を換えれば、無理やり武甕槌神を彼等の関係の中に挿入 させているように、見えないこともないかも。 どう思われますか?