祭 神:豊玉姫命を若狭彦姫とたたえて奉祀 境内社 中宮神社 ご祭神:玉依姫命 日枝神社 ご祭神:大山咋神 玉守神社 ご祭神:玉守神 説 明:栞を転載します。 「霊亀元年九月十日鎮座 小浜市下根来白石に鵜の瀬というところがある。 遠敷川の清流が巨巌に突き当たって淵をなしておる。この巨巌の上に、先づ 若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝える。この南方150mのとこ ろに、創祀の社と伝える白石神社がある。 その後、永久鎮座の地をもとめて、若狭国を巡歴なされた末、霊亀元年九月 十日に、龍前に若狭彦神社、六年の後、即ち、養老五年二月十日に、遠敷に 若狭姫神社が鎮座。 上下分かれての鎮座は、深き幽契の存するところと恐察しまつる。 下社を古来、若狭姫神社、遠敷神社(遠敷明神)とも称したが、明治初年、 国幣中社に列せられて、官祭を仰せ出された後は、若狭姫神社、または若狭 彦神社下社と公称されるようになった。また上社及び下社を併せて、若狭彦 神社とも、上下宮ともたたえまつる。」 住 所:福井県遠敷郡 電話番号:0770−56−1116 ひとこと:若狭彦神社のご祭神と夫婦の神様です。 彦神社に準じて、「養老五年二月」に何があったか、を見てみましょう。 2月7日に地震があるなど、何か不穏な雰囲気はありますが、中でも重大な 事件であったと思われるのは、前年の8月3日に、藤原大臣(不比等公)が 亡くなったことではないかと思われます。 若狭彦神社のご祭神・彦火火出見尊が、もし私の考えのように、「聖武天皇」 を反映した神ならば、その妻であるこの「若狭姫」・・・豊玉姫命は、どな たにあたるのでしょう。 聖武天皇の皇后は、「光明子」。まぎれもない不比等公の娘なのですが・・・。 そして、首皇子(聖武天皇)の妃になったのは、霊亀二年のこと。 若狭姫神社永久鎮座より、5年前のことです。 そう考えれば、この若狭姫神社の永久鎮座は、藤原不比等公への、追悼の意 味を読み取れるのですが、考えすぎでしょうか?? さて、若狭夫婦神について、注目してみましょう。 若狭彦・若狭姫は、火火出見尊と、豊玉姫命の別名である、とされています。 しかし、それは、「永久鎮座された時」にそう決められたのではないか、と 私は思うのですが・・・。 もし、その推理が当ってたとしたら、実際は、若狭彦・姫夫婦とはどのよう な神様だったのでしょうか。 まず、鵜の瀬の巨大な巌の上に出現された神様であるということ。 そして、夫婦神である、という特徴が見えますよね。 これは、私の勝手な想像ですが・・・。 古代の日本人は、太陽に、月に、風に、川に、神を見出しました。 それが、日本古来の信仰ではないかと思います。 そして、日本神道の信仰の対象としては、自然以外に、「先祖」があると思 います。 ○○氏の祖神・・・と称される神様ですね。 例えば、天皇家の祖神は、天照大神である、とされています。 世界中を見ても、このような素朴な信仰は珍しくなく、土着の、昔ながらの 信仰形態は、どの国も同じような事情だったのではないか、と考えますが、 太陽が女神で、月が男神とされるのは、とっても珍しいことだといわれます。 ギリシャ神話では太陽はアポロン・月はアルテミス。 ローマ神話では、太陽はアポロ・月はディアナ。 どちらも兄妹関係となってます。 エジプトでは、太陽はラー。月はイシスということになるのでしょうか。 この場合は、息子と母の関係ですね。 ・・・つまり何が言いたいか、というと、太陽や月や自然を神格化したも のなら性は単一。 夫婦神とする必要はないのではないか、と思うのです。 例えば、太陽と月をそれぞれ神格化して夫婦神と見なすということもあり 得るでしょう(ただし、太陽と月は別々に出るため、夫婦と見なすことは あまりないかもしれませんが)。 川と海をそれぞれ神格化し、夫婦神と見なすこともあるかもしれません。 もちろん、「風の神」である、志那都比古神と志那都比売神のように、自 然崇拝の神にして、生まれながらに夫婦(兄妹)である場合も見受けられ るのですが・・・。 今昔物語や、宇治拾遺物語に、「妹背島」という物語がでてきます。 これは、実は、南日本に広く分布するいわゆる「伝説」なようですが、骨 子は、兄と妹が、戦乱で生き残ったり、二人っきりで船で流されたりして、 二人っきりになってしまうわけです。 そして、二人は夫婦になって、その子孫は島に溢れんばかりになった、と まぁ、そういうお話なわけです。 今昔は、「思うに、これは、この兄妹の前世からの宿命であったろう」 と淡々と結んでいて、兄妹相姦に対する嫌悪の感情は伺えません。 だいたい考えてみたら、日本の最初の夫婦神、イザナギ&イザナミも兄妹 ですもんね。 私達日本人は、「兄妹相姦の子孫」ってことになるわけで、嫌がってたら、 自分まで否定しなくてはならなくなるわけです(とはいえ、同じ記紀の中 でも、允恭天皇の時代の兄妹=軽王子と衣通姫の恋愛は、忌避すべきもの として描かれてますけどね)。 つまり、この「兄妹」は、ある氏族の「始祖」ということになるわけで、 崇拝の対象でさえある、というわけですね。 若狭彦・姫夫婦神についても、「先祖崇拝」の意味合いが強かったように 思えます。 そして、その神々が、水の上の岩に出現されたということは、水を崇拝す る氏族の祖神だったのかもしれません。 それじゃあ、その氏族とは? さぁ〜〜〜〜〜・・・。 若狭は、朝鮮半島から出発した船が辿り着く可能性も高い場所ですから、 外来の氏族だったかもしれませんが・・・。 それならば、その神は「瀬」ではなく「海」に出現したような気がします。 ということで、一旦若狭に土着した氏族なんじゃないかなぁ・・・と。 そういう風に想像するのですが、どうでしょうね?