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夜刀(愛宕)神社

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  祭  神:軻遇突智神 
  説  明:玉造町役場でいただいた、「夢色透明story」というパンフレットから、この神社
       に関係ある伝説を引用します。
      「夜刀神と椎の池
       谷を支配し身体が蛇で頭に角のある夜刀神を壬生連麿呂は台地へ追い払い芦原を美
       田に造り変えた。人々は社を建てて夜刀神を祀り稲作の始まりを宣言した。」
  住  所:茨城県行方郡玉造町天竜甲3451−1
  電話番号:
  ひとこと:常陸国風土記には、こうあります。
      「石村玉穂宮に大八洲をお治めになられた天皇(継体天皇)の御世に、(えらい)人
       があった、箭括(やはず)氏の麻多智(またち)という。郡役所から西の谷の葦原
       を占有し開墾してあらたに田を作った。この時、夜刀の神は群をなし互いに仲間を
       引き連れてことごとくみんなやってきた。そしていろいろさまざまに妨害をし、田
       を作り耕させなかった。《土地の人は言う、『蛇をよんで夜刀の神としている。そ
       の姿は、からだは蛇で頭には角がある。杞(かわやなぎ)を身に帯びていると難を
       免れるが、運わるくこれを見る人がいると一家一門は破滅し、跡継ぎの子孫がなく
       なる』。だいたいこの郡役所の側の野原には非常にたくさん住んでいる。》ここに
       おいて麻多智は激怒のこころをおこし、甲冑で身を固め、自身で矛を手にとり、打
       ち殺し追い払った。そこで、山の登り口に行き、(土地占有の)標の大きな杖を境
       界の堀に立てて、夜刀の神に先刻して、『ここから上は神の土地とすることを聞き
       入れてやろう。だがここから下は断じて人の田とするのだぞ。今後は、私が神の祭
       祀者となって、代々永く敬い祭ろう。どうか祟ることのないよう、恨んではならぬ』
       といって、社を作ってはじめてお祭りした。すなわちまた耕田一十町あまりをひら
       き、麻多智の子孫が、互いに受け継いで祭を執り行い、いまに至るも絶えない。そ
       の後、難波の長柄豊前の大宮に天の下をお治めになられた天皇(孝徳天皇)の御世
       になって、壬生連麿が、始めてその谷を占拠して、池の堤を築かせた。その時、夜
       刀の神が池のほとりの椎の木に昇り群がって、いつまで経っても退去しない。ここ
       において麿は、大声をあげて怒鳴って、『この池を修築させるのも、根本は人民の
       生活をよくするためなのだ。大君の教化にしたがおうとしないのは、いったいいか
       なる神(あまつかみ)か、どこの祇(くにつかみ)なのか』といい、ただちに使役
       していた農民に命じて、『目に見える一切の物は、魚でも虫でも、恐れたり愚図愚
       図しないでみなことごとく打ち殺せ』といった。その言葉がまさに終わるや否や、
       神蛇は遠ざかり隠れてしまった」

       夜刀神が昇り群がった「椎の池」は、社殿のある丘の麓にあります。

       この風土記の文章でひっかかるのは、麿の言葉です。

      「この池を修築させるのも、根本は人民の生活をよくするためなのだ。」

       根本は・・・?

       つまり、少なくとも表面的には、人民の為だとは思えない理由で、この池は修築さ
       れようとしたということじゃないでしょうか?

       では、誰のために?
       それは、もちろん「教化」しようとした、「大君」のためでしょう。

       そして、具体的には、どうも、「田を作るため」なようですね。

       ということは、この「夜刀神」たちは、田を作って生活をしていた人々ではない、
       そういってもいいんじゃないでしょうか?

       農耕の民ではなかったとしても不思議はありません。
       なにしろ、この玉造という町は、霞ヶ浦のすぐ側。
       古代は、海に面していたかも?

       海洋民族だったのかもしれないですね。

       海洋の民が居住している場所に、農耕の民がやってきて、
      「丘の上に退け。この土地は田にする」
       と言ったわけでしょう。

       そして、「杞」が苦手だというのも、興味を惹かれます。
       杞は、しなやかな枝を持つ落葉樹で、籠の材料となったそうです。
       そんな杞の何が怖くて、夜刀神はそれを避けようとしたのでしょうか?

       一つ考えられるのは、「籠目」。
      「かごめ」と読むのですが、これは、見た目は、いわゆる「六芒星」や「ヒランヤ」、
      「ダビデの星」と同じものです。

       六方向に編んだ籠のひとつひとつの目を見てください。
      「六芒星」になってますよね?

       これは、「邪視除け」になる、とされてきました。
       目がたくさんあるから、邪視を睨み返すとされてたんですね。

       つまり、夜刀神は、この「邪視」の持ち主だと考えられていたのじゃないでしょう
       か?
       前後しますが、「邪視」とは、その目に睨まれるだけで、もしくは見られるだけで、
       災厄がふりかかる・・・という最強の目です(笑)
       地元の民も、
      「運わるく夜刀神を見る人がいると一家一門は破滅し、跡継ぎの子孫がなくなる」
       と証言していますから、夜刀神が邪視を持っていると信じられていた可能性は、結
       構ありそうですよね。

       でも、
       もし、本当に夜刀神がそんな目を持っていたのならば、麻多智も麿も、またたく間
       に、破滅していたはずですから(笑)

       これは、デマでしょう。

       ただ、本当に夜刀神は、丘の上に退去したのかもしれません。
       ただし、「麻多智や、麿によって、追い払われた」のではありません。

       実は、同じく玉造町役場でいただいた、「夢色透明story」には、こんな伝説も収め
       られているんです。

      「弁天様と道祖神
       恋心で一途な醜き道祖神に追い回された弁天様は、ついに蛇になって高い山に逃げ、
       頂に祀られた。嫌われた道祖神は寂しく麓に祀られる祭祀起源の話」

       これがどこの伝説か、具体的には書かれていないのですが、チェックされた地図を見
       ると、椎井の池からほど近いことがわかります。

       面白いのは、
      「蛇」「山の上に逃げる」というキーワードが共通しているところです。

       夜刀神も、「追い払われた」のではないかも。

       麿や麻多智に、
      「ねぇ〜、漁のしかたを教えてくださいよ〜」
       と頼まれて、教えたはいいが、この二人、漁が下手で下手で。
       夜刀神はすっかり呆れてしまい、
      「基本は教えたんだから、後は勝手にやりなさい」
       と見放してしまいました。

       ところが、二人ではさっぱり魚が採れない二人は、
      「ねぇ〜、二人じゃ採れないですよ〜。教えて〜」
       と追いかけてきます。

       漁は、敏感な魚達を相手にするもの。
       いかつい、麿と麻多智が、ドスドスと海面を追いかけてきたんじゃ、釣れる魚も釣れ
       やしません。

      「えい、この巨漢め!あっち行け!」
       夜刀神は追い払おうとしながらも、後退します。

       ところが、無骨な二人は全然めげません。
      「逃げないでくださいよ〜。教えて〜、教えて〜」

      「あっち行け!あっち行け!!」

      「待って〜、教えて〜」

       そんなこんなで、夜刀神はとうとう山の上まで上り詰めてしまいました。

       大きな麿と麻多智は、茨などがいっぱい生い茂った山の上までは追いかけられず、仕
       方なく麓へ戻り、農作を始めたのでした。

       夜刀神といえば・・・。
       漁に出たいのに、海へ行くため、麓を通ろうとすれば、二人が、
      「教えて〜、教えて〜〜〜」
       と追いかけてくるので、山の上で暮らすしかないのでした。くっすん。

       ・・・どっちにしても、夜刀神はかわいそうだなぁ(^^ゞ       

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