祭 神:屋舩久久能智命 相殿:大己貴命 応神天皇 説 明:案内板から転載します。 「當社は、人皇十代崇神天皇の御宇に御鎮座の官幣社で、二千百四年の歴史をもつ延喜式内社であり ます。 また往古より、菊御紋を装飾した郷十八カ村の総社氏神でもありました。 建長四年(鎌倉時代)には能登国の二宮となり、文徳天皇より後圓融天皇まで九度の神位を受けて おります。 社殿後山は天日加氣山と云い、大御前峯社は、羽咋鹿島両部の雨乞所跡であり、中御前は崇神天皇 の御廟跡で印入日子命(垂仁天皇の御子)の御陵墓跡とも伝えられております。 六十一年目毎に羽咋鹿島両部郡市、諸難退散祈願が執行され、両郡市より多数の参詣があり、盛儀 を極め、現在に至っております。 例祭六月十五日 春祭四月十八日 夏祭七月十五日 秋祭十月十五日 宮司 松木 清史 撰文」 住 所:石川県鹿島郡中能登町二宮甲8 電話番号: ひとこと:案内板では御祭神は屋舩久久能智命。相殿は大己貴命と応神天皇になっていますが、神社の公式サ イトでは、御祭神は天日陰比咩大神と屋船久久能智命。相殿は伊須流支比古大神と大己貴命、そし て応神天皇になっています。 「往古はこの神社境内地に、天日陰比咩神社と伊須流支比古神社の二社が鎮座されていた故に、集落 名を二宮と云い神社名も二宮大明神と呼ばれていました」 と、サイトにありますから、この二神はペアと考えられていたのかもしれません。 伊須流支比古大神は、このあたりの地主神でしょう。 詳細は、伊須留岐比古神社の紹介をご覧いただきたいのですが、石動山こと枝摺樹(えするぎ)山 を神格化した神ではないかと思われます。 天日陰比咩神社のサイトには、「石動山は往古枝摺樹山と呼ばれ老木大木折り重なり山鬼等の怪し き物の棲む山と恐れられ、泰澄法師が開山にあたり、それを鎮める為に養老年間、二宮の神社境内 に鎮座されていた二社の内の一社、伊須流支比古神社の御分霊を現在の大峰に勧請したと伝えられ ています」と、あります。 そして天日陰比咩は、社殿の後山……ってことはご神体でしょう。 天日加氣山を神格化した神ではないかと。 山頂の大御前峰社趾には天日陰比咩大神が祀られている、と。 羽咋鹿島両郡市の雨乞い所でもあるということですから、天日陰比咩大神は雨の神様でしょうか。 中腹の中御前社は崇神天皇の御廟趾。 さらに皇子印色之入日子命の御陵墓趾でもあります。 記紀においては、印色之入日子の父親は垂仁天皇で、崇神天皇は祖父にあたるのですが、神社の説 明では、崇神天皇の皇子となっていますね。この辺り独自の伝承か、あるいはただのミスかわかり ません。 天日陰比咩が雨の神だとしたら、片割れの伊須流支比古はなんの神でしょう? 「石動(いするぎ・ゆするぎ)」の名がつく神社は各地にあるので、勢力のあった神なのだと思いま す。 石を動かすほど大きな力のある神という意味なのか、あるいは雷鳴を石が動く音と聞いたのか。 私の直感は、後者だと申しております(笑) 7年前に参拝して、アップするのを忘れていたので、それ以上の感想は今のところないのですが、 近いうちに再度お参りしてこようと思っています。 2022年6月6日再訪。 私たち夫婦の25年目の結婚記念日……の、前日でした。 天日陰比咩と伊須流岐比古の御朱印をお願いしたところ、伊須流岐比古の朱印のうえに天日陰比咩、 天日陰比咩の朱印のうえに伊須流岐比古を書いてしまったということで、 「どうしましょう?」 と謝罪されました。 ……でも、天日陰比咩と伊須流岐比古が夫婦なら、居場所が逆でもなんの問題もありません。 「実は私たち銀婚式なんです。だから却って縁起が良いです」 と言ったら、神社境内の「みくりや」で醸されたどぶろくを下さいました。 新嘗祭に供されるものなのだそうです。 その後、神社の御由緒などについて教わったのですが、読み返したら、すでに書いてる内容でした(^^ゞ ただ、「二宮神社」と呼ばれていたこの神社が、「天日陰比咩神社」と呼ばれるようになった経緯 についてはわからない。 多分江戸時代から明治時代のころのことで、当時の男尊女卑が関係してるんじゃないかという意見 もあるとおっしゃっていました。 神職さんから直接お話を聞けて、ラッキーでした(^^)/