祭 神:安志姫命 説 明:境内案内板を転記します。 「安志姫神社は安師の郷(後の安志郡安志荘)と呼ばれた安富町域の産土神・ 安師比売の神を祭神とし、祭神は遠く人皇十三代成務天皇の御宇甲申年昭 和六十一年より遡り、一八五〇年の昔当所に勧請し祭祀されたと伝えられ、 関を除く十二ケ村を氏子とする古い社である。播磨国風土記には伊話の大 神が安師比売の神様に求婚したが拒絶され、怒った大神が川上を石でせき とめて三方の里の方へ流したので、水の少ない川になった。この川は神の 名を採って安師川といいこれまで山守の里といったのを川の名によって安 師の里と改名したと述べている。 古くは播磨国の主要な二十四社の中に数えられ、播磨国総社に合祀され室 町時代初期の峰相記にも見える。慶長検地の記録によると、安志賀茂神社 名坂八幡神社とともにそれぞれ畠二反が免租地に認められ、江戸時代の記 録ではこの三社が安志谷氏神三社とされている。播磨鑑によると祭礼は旧 暦十月二十六日であった。関を除く十二ケ村が年番で行い、馬駆け神事に よって馬駆け祭といい近年まで続いていた。祭礼に国長進藤両家の出席を 要するのは、両家には特に祭神安志姫神と親しかった伝承があることから みて、変形した当屋制のなごりとみるべきであろう。また祭礼に欠かせな い神饌粟飯(もっそう)は神官自ら作り、神事参列者に三個ずつ供応する のに両家が一個であるのは、本来は両家が当屋として当主が自ら作って祭 礼を司ったことを示し、近世の初め神官職の出現によって祭礼がゆだねら れ、当屋の制が変形したことを示している」 住 所:姫路市安富町三森13 電話番号: ひとこと:「もっそう」とはなんぞやと思いましたが、「物相」と書き、木枠などで 作った形にご飯を詰め、形抜き状に作ったご飯のことのようです。 松花堂弁当なんかに入ってる、あれですね。 この神社のおまつりでは、参列者にふるまわれたようです。 伊和大神は、大国主と同神ではないかとも言われていますが、確かに、女 好きなところはそっくりです(笑) ……播磨国風土記によれば安師の里はもと酒加の里と呼ばれたとあります。 酒を加える。 なんて素敵な地名(#^.^#) その名の由来として、 「大神がここで飡(飲食)しなされた。だから須加といった。後には山守と よんだ。そういうわけは、山部三馬が里長に任命された。だから山守(の 里)といった」 と説明されています。 酒だけじゃなく、つまみもあったようですね(笑) なんにせよ、中央政権の神ではない、産土神を祀る神社は、これからも残 っていってほしいものだと思います。 ちなみに、伊和大神がせき止めた巨石群と、安志姫が変じたとされる石は、 兵庫県宍粟郡安富町関554 の水尾神社にあります。 巨石群の案内板を転載しておきますね。 「宮ノ下渓谷の巨石群 昔々、伊和の大神が安師姫に求婚をしましたが、聞き入れて貰えなかった 大神は、たいそう怒って大岩でここを堰き止めて、ここの水を三方(宍粟 市一宮町)の方に流しました。それで安師川は水が少なくなったと、播磨 国風土記に記されています。 堰に使った大岩がこれらで、そのことから、ここの集落を『関』とよんで います。」