祭 神:田寸津比賣命 市寸島比賣命 市寸島比賣命 説 明:境内案内板から転載します。 「辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す 辺津宮(下之宮)御祭神 田寸津比賣命 土御門天皇 建永元年(1206)源實朝が創建 弁天堂には日本三大弁財天の妙音・八臂弁財天御尊像を始め十五童子像・後宇多天皇の勅願・弘法大師の護摩 修法による弁財天像他が奉安されている。宋国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池・御神木の結びの樹等があり、 八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座する。 中津宮(上之宮)御祭神 市寸島比賣命 文徳天皇仁寿三年(853)慈覚大師が創建 現在の社殿は元禄二年(1689)の御造営で、平成八年の御改修により格天井には花鳥画が施され、彫刻等が復 元された。 境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある。 奥津宮(御旅所・本宮)御祭神 市寸島比賣命 天保十三年(1842)再建 源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の力石・鎌倉四名いしの一つ亀甲石・御神木・山田流 筝曲開祖 山田検校像等がある。 龍(わだつ)宮 龍神をまつる(例祭九月九日) 岩屋 波の浸食で出来たもので第一・第二霊窟からなり、約150メートル深奥が当神社発祥の地である。欽明天 皇十三(552)年にこの地に鎮座された。 春季大祭 初巳例大祭 四月初の巳の日 秋季大祭 古式初亥祭 十月初の亥の日」 「龍宮 御祭神 龍神 江の島は湧出以来龍の棲む処と言われ、古来より龍神は弁財天信仰と習合し、密接な結びつきから江島縁起を始 め多くの伝説が残っている。『太平記』には時の執権、北条時政が江の島に参籠して子孫の繁栄を祈った時に、 龍(大蛇)が現れ三つの鱗を落とせり、時政紀願成就とよろこびその三鱗を授かり象紋となす。或るは北条貞時 が霊夢を見、龍池に赴くと金銅の龍頭を見たと。或るは『足利治乱記』には海に夜毎光ありて、白龍長さ廿許(約60米) なるが海中より出て、絵島石穴に飛入るを諸人多見之と。謡曲『江ノ島』には天女が龍神と姿を現じて、七難即 滅七福即生き悪事災難を祓いて諸願成就を宣う御声も新たに聞こえとある。 伝記は多く残されており、この神秘なる趣意を鑑み、平成六年九月吉日に当社発祥地たる岩屋洞窟の真上にご鎮 座となった。 龍神詠歌 天地の開けし御代は平成の天の戸明けゆく東天紅蒼海満々と立ち渡り、舞う老の波、今ぞ時なる重陽に龍神の吟 ずる声ありて、波浪を蹴たてて、逆巻く潮の迫るとともに、龍神海上翔け昇り、五色の彩雲普々にその雲上に顕 ずなり。願事叶ふ如意宝珠三光を発し、島上の龍宮に天降り給ひぬ。衆生済度の方便、生死の相助けんと…… 御神慮幽くにありて、噫かたじけなきかな」 住 所:神奈川県藤沢市江の島2−3−8 電話番号: ひとこと:案内板の説明だけでは歴史がよくわかりませんので、平成「祭」データの説明も観てみましょう。 「むかし、御窟(おんいわや)を本宮といい、中津宮を上(かみ)の宮、辺津宮を下(しも)の宮といった。また 御窟を金窟(きんくつ)ともいったのは、中で金色の光を発したからだとも、また金を採取出来たからだともい われる。社伝によると、「欽明天皇の御宇、神宣により、詔して宮を島南の竜穴に建てられ、一歳二度の祭祀こ の時に始まる」とある。これが当社の起源であるが、欽明天皇の十三年で西暦五五二年、丁度仏教伝来の年に当 る。文武天皇の四年(西暦七〇〇年)、役小角と云う人この窟に参篭して神感を受け、その後泰澄(たいちょう)、 道智(どうち)、弘法、安然、日蓮等の名僧が次々行を練り、祈念をこめて霊感を受け、高い御神威を仰いだと 伝えられ、神仏習合のあとが著しい。 竜穴は七瀬祓の霊所となっていたことが吾妻鏡(鎌倉幕府の公式記録)に記されているが、七瀬とは当時加持祈 祷を行なった七つの霊所で、由比ケ浜(鎌倉)、片瀬川(片瀬)、江の島(霊窟)、金洗沢池(田辺池か)、六 連[むつれ](武蔵金沢)、杜戸(杜戸の浦今の葉山、森戸)、鼬河[いたち](柏尾の)の七箇所であった。 毎年四月初の巳の日、神輿が山上の御旅所に渡御され、十月初の亥の日、御窟に還御されたが、のち御旅所を本 宮と称するようになり、社殿は壮麗を極めたが、天保十二年(西暦一八四一年)、焼失した。翌十三年、再建し たのが今の奥津宮御社殿で、昭和五十四年、御屋根を修復した。中津宮は文徳天皇仁寿三年(西暦八五三年)の 創建で、その後、天文十八年七月、北条氏綱公修復。元禄二年、再建。昭和五十五年、改修と度々手が加えられ ている。辺津宮は土御門天皇建永元年(西暦一二〇六年)、源実朝が創建し、延宝三年再建。昭和五十一年、大 改修が行なわれた。 神仏習合の頃、金亀山与願寺と号し、祭神は弁財天女とされるに至り、江島明神は江島弁天として世に広まった。 近江の竹生島及び安芸の宮島と共に日本三大弁天として宣伝され、その信仰はいまに残る。しかし、この間天つ 神としての当社御祭神の御神威はいささかも曇り給うことなく、御神徳はいよいよ広大に仰がれた。即ち、御宇 多天皇は蒙古軍を撃ち退けられた御礼のため、江島大明神の勅額を御奉納になり、源頼朝は鳥居を奉納し、北条 時政は参篭して奇瑞を蒙り、竜の三鱗を授けられて家紋となし、氏家は社殿を修理する等鎌倉幕府及び武家、庶 民の信仰篤く、次いで慶長五年六月、徳川家康御窟に入って祈願してから徳川幕府の崇敬もここに集り、社領三 十五石の寄進があったことなど、その数例に過ぎない。 明治初年、仏式を全廃して、純神道に復し改めて江島神社と号し現在に至る。」 つまり、欽明天皇のときに神の託宣があって創建された神社なわけです。 しかし神はなぜここに神社を建てろとおっしゃったのでしょう? 仏教伝来の直後に天然痘が日本に入り、パンデミックを起こしていますから、疫病封じだったかもしれません。 この江島神社、延喜式神名帳には記載されていないようです。 欽明天皇勅願の神社なのにね??? というわけで、時代か、天皇勅願か、どちらかが間違ってる可能性が高いように思います。 また、第一岩屋の奥が江島神社発祥の地とされているのですが、これは『江嶋縁起』によります。 四巻からなる縁起で、その概要は、 一巻は「深沢に五頭龍が住み付き付近に災害をなす」 二巻は「江の島に弁財天女が降臨、五頭龍を改心させる」 三韓は「泰澄大師が江の島に参詣し弁財天に請願する」 四巻は「弘法大師窟うちで祈願し、金窟に社殿を開く」 と説明されていました。 つまり、悪龍が江の島の弁財天に恋をし、妻に請うたところ、 「改心すれば妻になる」 と言われたので、善龍になった、と。 その弁財天が江の島の弁財天で、女神降臨の際に江の島が隆起したというお話しのようです。 到着した10時ごろはそれほど人もおらず、江の島の玄関から岩屋へ向かう船もすぐに乗れました。 岩屋から奥宮、中津宮までは人のいない社殿も撮影できたんですが、辺津宮まできたときには大行列。 自粛明けの春休みに参拝したのが間違いだったのかもしれませんが、密でした(^^ゞ ただ、階段は評判ほどはひどくなく、岩屋から奥宮まで、息が上がる前に到着。 ゆっくり廻っても2時間でした。 ここらへんは体調とか体力によると思いますので、もし参拝されるなら、余裕を持ってくださいね。 これで、三大弁財天すべて参拝しました。 厳島神社、都久夫須麻神社、そしてここ、江島神社。 それぞれに個性があり、同じ女神を祀っているようには思えなかったですね(笑)