renai

走水神社

hashirimizu

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御所が崎

hashirimizu

かつて橘神社が建っていた小山





  祭  神:日本武尊 弟橘媛命
  説  明:神社誌から転載します。
      「走水神社は、十二代景行天皇の皇子、日本武尊とお妃の弟橘媛命をお祀りしております。
       景行天皇即位四十年、東国の蝦夷が叛くので、その鎮定を日本武尊に命じました。武尊は勅命を奉じて、
       伊勢神宮に参詣され、戦勝祈願をなし、神宮の斎宮であった叔母の倭姫命より神宝の天叢雲之剣と火打
       袋を授けられ、東国に征討の軍を起こされました。途中、静岡(焼津)にて、賊にだまされ火攻の難に
       遭遇しましたが、天叢雲之剣で草を薙ぎ払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したと言われ、これ
       によりこの神宝を草薙之剣とも呼ばれ、以来、熱田神宮の神宝となっております。
       武尊らは、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着され、御所(御座所)を建てられまし
       た。(御所が崎と呼ばれています)
       走水の地にて軍船等の準備をし、上総に出発するときに村人等が武尊と橘媛命を慕うので、武尊は冠を
       村人に与えました。村人等はこの冠を石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てました。(神社の創建で
       す)
       武尊は、軍船にて一気に上総国へ渡らんと船出されましたが、海上半ばに於いて突然強い風が吹き、海
       は荒れ狂い、軍船は波にもまれ進みもならず戻りも叶わずあわや軍船は転覆するかの危機に、武尊に付
       き添ってこられた弟橘媛命は、「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、私が
       海に入り荒ぶる神の御魂を鎮めますほどに、尊様は恙なく勅命を奉じて、その任を完遂してほしい。」
       と告げ、
      「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」
       と、辞詠をのこし、菅畳八重、皮畳八重、あしぎぬ畳八重を波の上に敷いて激浪に身を投じたところ、
       忽ちに海は凪ぎ、波は静まり、武尊一行の軍船は、水の上を走るように上総国に到着いたしました。以
       来、水走る・走水と言われております。
       上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげ都に帰る途中、碓氷峠より遥か東方に光る走りの
       水の海の輝きを眺め、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛命を偲び「ああ吾が妻よ」と三嘆したと
       いう。(吾妻・あずま)そしてこれを以て東国を東(あずま)と呼ぶようになりました。
       武尊は帰路の途中、伊吹山の賊との戦いの後病にかかり、伊勢国能褒野で亡くなられました。御歳三十
       三歳と言われております。
       異常は、奈良朝時代の初期に編纂された『古事記』『日本書紀』に記されております。
       また、弟橘媛命が御入水をして数日後、海岸に櫛が流れ着きました。村人はその櫛を、武尊と橘媛命が
       住んでいた御所が崎に社を建て、櫛を納めました。(橘神社の創建。)
       その後、明治十八年に御所が崎が軍用地に接収されたため、橘神社は走水神社境内(神殿の横、現在、
       機雷のあるところ)に移され、明治四十二年に走水神社に合祀されました」
  住  所:神奈川県横須賀市走水2‐12‐5
  電話番号:046-844-4122
  ひとこと:走水神社の神職さんに、橘姫が入水されたとされるあたりはあのあたりだとか、もともと橘神社が建っ
       ていたのは、あの小山の上だとか教えていただきました。
       
       かつて橘神社が建っていたとされる場所は、現在砲台跡になっていて、横須賀市が管理しているそうで
       す。
       前もって申し込めば、案内していただけるそうですが、知らなかったもんで、砲台跡には入れませんで
       した(/_;)
       
       走水神社の社伝によれば、創建は大和武尊の時代だということになりますが、横須賀市には式内社がな
       いんですね。
       やはり蝦夷の国だから?
       
       参拝した日は雨上がりで、海が綺麗に見えました。

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