祭 神:櫛稲田姫命 大己貴命 三穂津姫命 説 明:境内案内板を転記します。 「当社は、旧見沼を一望できる大地の突端『三室』に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した 沼で、享保十二年(1727)の新田開発までは、一二平方キロメートルという広大なものであっ た。この沼は御手洗として当社と一体であり、ここに坐す神は女體神、すなわち女神であった。 創建の由緒は明和四年(1767)に神主笠大学の記した『武州一宮女體宮恩由緒書』(大熊家文 書)によると『崇神帝之御勧請』『出雲国大社同躰』とある。また『神社明細帳』控には、見沼近 くにある当社と現在のさいたま市大宮区高鼻鎮座の氷川神社、同市中川鎮座の中山神社(氷王子社) の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。 中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(みつうろこもんひょ うごくさりたち)は北条泰時の奉納と伝える。 祭祀は御船祭と称し、隔年の九月八日に見沼に坐す女神に対して行われた。しかし、古来より続け られてきた御船祭は、享保十二年見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。 このためやむをえず磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高檀を設けて周囲に池を 掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同じ十四年(1729)九月から斎行された。 下山口新田には、祭場遺跡として『四本竹』の地名が残るが、近年の発掘調査では多数の注連竹が 発見され、これを裏付けた。 社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹叢であることから、昭和五十六年に埼玉県より『ふるさ との森』の第一号として指定された」 住 所:埼玉県さいたま市緑区宮本2−1−7−1 電話番号: ひとこと:東浦和駅から約3キロ。 大した距離じゃないと思ってたんですが……。 神社から1キロほどのところで、いきなりGPSが狂い始めて、一駅西側を歩いてることになっちゃっ たんですよ。 あたりは田んぼばっかりで目印になるものもないし、道は何股にもなってて、どの道を進むべきか 迷うし……。 田んぼで作業しているおじさんに道を聞いたら、 「大きな森が見えるでしょう? あれを目指していけば迷いません。一本道ですよ」 と教えてくださいました。 ……いや、こういう言葉遣いじゃなかったと思うんだけど、私の頭だと大阪弁に変換してしまう(^^ゞ 帰途も、同じくらいの場所から正常化したので、このあたりだけがくるっているようですね。 ……なんなんでしょう?こういうの。 埼玉県は沼が多いようで、宿泊した東松山市には上沼・下沼があります。 それぞれ「男沼」「女沼」とも呼ばれていて、戦国時代の武将夫婦が身投げしたと伝わっています。 夫戦死の報せを受け取った妻がまず女沼(下沼)に身投げをするんですね。 で、帰ってきた夫が妻の死を嘆き、男沼(上沼)で身投げ。 ……なんとも空しい話ですが、この伝承には原型があったんじゃないのかなっていう気もします。 すなわち、男沼に身投げをした男がいて、女沼に身投げをした女がいた。 あるいは、男沼の人身御供は男性と決まっていて、女沼のそれは女性とか。 まぁ、古来上沼を男沼、下沼を女沼と呼んでいて、そこに伝説をこじつけた可能性の方が高い気も しますけれど……。 女沼には弁天堂があり、ここで恋の願掛けをすれば、必ずかなうとやら。 女神の沼にある祭祀場ということで、ここ氷川女體神社との共通点を見出すのです。 なぜ女神なのでしょうね? 昔から、恋の願い事をするのは女性が多かったのでしょうか。