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乘田神社

hikita




  祭  神:大己貴命 高龗(おかみ)神 豐受比賣命
  説  明:境内にあった説明書を転載します。
      「雄略天皇遊行ばしつつ美和川に到りませる時に、河の辺に衣洗う童女有り。
       其れ君姿甚麗かりき、天皇その童女に、汝は誰が子ぞと問はしければ、己が
       名は引田部の赤猪子と謂すと答白しき、かれ詔らしめたまへらくは、汝嫁夫
       がずてあれ、今喚してむ、と、のらしめたまひて、宮にかへり坐しきかれ其
       の赤猪子、天皇の命を仰待ちて、既に八十歳を経たりきて是に赤猪子以為ひ
       けるは、命を待ちつる間に、己に多年を経て、姿体痩み萎けであればさ
       らに所恃無し、然れとも、町つる情を顕しまをさずしては、?くて、えあら
       じとおもひて、百取之机代物を持たしめて、参上て貢献しみ、然るに天皇、
       先に命りたまへりしことをば既く忘らして、其の赤猪子に問はしけらく、汝
       は誰やしき老女ぞ、何用とて来つるととはしければ、赤猪子白しけらく、其
       の年の其の月に、天皇の命を被りて、今日まで大命を仰ぎ待ちて、八十歳を
       経にたり、今は容姿既に耆いて、更に所恃無し、然はあれとも、己が志を顧
       し、白さむとしてこそ参出つれとまおしける。是に天皇大くおとろきまして、
       曰りたまはく、吾は既く先のことを忘れたり、然るに汝守志に命を待ちて徒
       に盛年を過ししこと甚愛悲し、とのりたまひて婚さま欲くおもほせとも、そ
       の極く老いぬるに憚りたまひて、御歌を賜ひき 其の歌
        みもろの、いつかしがもと
         かしがもと、ゆゆしきかも、かしはらおとめ。
       又、歌ひたまはく、
        ひけたの、わかくるすばら
         わかくに、ゐねてましもの、おいにけるかも。
       かれ、赤猪子が泣く涙に 其の服せる丹摺の袖悉ぬれぬ。
       其大御歌に答へまつれる歌
        みもろに、つくやたまかき、
         つきあまし、たにかもよらむ、かみのみやひと。
       又、歌ひけらく
        くさかえの、いりえのはちす
         はなばちす、みのさかりびと、ともしきろかも。
       かれ、其の老女に禄多に給ひて、返し遣りたまひき。
       故れ此の四歌は志都歌なり。
       右 古事記下巻より抜粋しましたので参考にしてください。
        昭和四十二年十月二十八日
         乘田神社宮司 桑山迪徳」
  住  所:奈良県桜井市白河285
  電話番号:
  ひとこと:桜井市に「出雲」の地名があり、ずっと気になっていました。
       この日もここを通りがかった時、旦那が、
      「ちょっと行ってみるか?」
       って聞いたんですよ。
       で、しばらく行くと、
      「野見宿禰塚の由来」
       なる看板が。
       こちらも転載しておきますね。
      「『日本書紀』の垂仁天皇条に、野見宿禰は、国技相撲の開祖であり、また、
       埴輪起源説話の土師祖連の祖でもあることが記されている。
       その野見る宿禰の塚が、ここから西南約150メートルのところに1883(明治
       十六)年まであった。
       直径二十メートル以上もある豪壮な塚で、その上に巨大な五輪塔(十二柱神
       社境内に現存)が置かれており、大昔から、近在の人々や力士が常々お詣り
       をしていた。
       それが明治十六年に、突然取り壊された。
       そのとき、塚の中にあった朱を捨てたところ、初瀬川が三日三晩赤く染まっ
       た。親子勾玉(子持勾玉)や埴輪、直刀、土器などが出土したとの伝説が、
       今も伝えられている。
       なお、この付近から1967(昭和42)年に、縄文、弥生、須恵器など多数の破
       片が採集され、縄文の大昔から、人が住んでいたことが推察された。
       ここは古代の市場『君殿庄』(あるいは、申川、平田、辟田とも呼称)伝承
       地の西端にあたり、纏向〜『ダンノダイラ』出雲〜宇陀の古道にも沿ってい
       る。
       古代の謎を抱えた地である。
       二〇〇〇年初春
        相撲開祖 野見宿禰顕彰会」
       
       野見宿禰は出雲出身です。
       でも、日本書紀の記述では、一日で天皇の宮へやってきたような書き方がさ
       れてるんで、気になってました。
       彼の出身地が、中国地方の出雲じゃなく、ここ桜井の出雲なのなら、納得が
       いきますね。
       
       そして、雄略天皇の時代になると、ここに「引田部」の人々が居住していた
       ことがわかります。
       
      「ひき」は「日置」にも通じますし、「蟾」にも通じるんですよね……。
       そしてこの地は、「太陽の道」にあたります。
       
       う〜ん、なんだかただならない場所なのではないかと思えます。
       
       そして、この逸話も何か不思議じゃありませんか?
       
       少女の頃、天皇に、「嫁にするから結婚してはダメだよ」と言われ、素直に
       待っていた赤猪子。
       赤猪といえば、出雲の王・大国主命を奪ったモノでもあります。
       彼女が若いうちではなく、年老いてから雄略天皇を訪れたというのは、どう
       にも意味深な気がするんですけどね。

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