renai

日雲神社

hikumo




  祭  神:天御中主神
  説  明:境内案内板を転記します。
      「当社の起源は詳らかでないが、古伝によると人皇第十一代垂仁天皇の御代、
       皇女・倭姫命、皇祖・天照大神を奉じ、御鎮座地を求めて諸国を巡行し給う
       た砌り、伊賀国より近江国に入り給い、甲可日雲の宮に四ケ年滞留されたと
       伝えられているが(倭姫命世紀による)その甲可日雲の宮が即ち当社の起り
       であるとされている。この地の字名が上野であるところから古来より上野山
       天神と称され、宮町背後の宮山を三郷山と呼んだ。中世以降神仏分離により
       天徳寺は廃され、宮座も幾許もなくして朽損した。
       明治九年村社に列せられ、同四十一年神饌幣帛料供進神社に指定されたが、
       大東亜戦争に敗れて社格は廃され、神社は宗教法人となり、当社は神社本庁
       に所属することとなった。本殿の形式は三間社流れ造り、屋根は桧皮葺で現
       在の社殿は元録四年と記録されている。
       九月の秋祭に奉納される太鼓踊は簡素なしつらえであるがよく古き手振りを
       残している郷土芸能で県の無形民俗文化財に選択されている。
       なお本殿右面の石灯籠は鎌倉時代後期の嘉元年間、石大工平景吉の作と推定
       され、文化財的価値あるものとされている。」
      「日雲神社太鼓踊
       伝承によると、崇神天皇の御代に皇女倭姫命が皇祖神天照大神を奉じ、その
       鎮座の地をもとめて、各地を巡行の時、この地に四年の間滞在されたことが
       この宮の起こりであるとされている。
       この日雲神社に伝えられる太鼓踊りは、平安時代から鎌倉、室町時代へと流
       行した『田楽』や、『風流』『山伏神楽』などの流れをくみ、その踊り方な
       どの中にその地方の太鼓踊りと比べて、民族資料としてたいそう貴重な踊り
       である。現在のような形になったのは江戸時代の中期ごろであろうと考えら
       れている。本来は、特定の日に踊らず、雨乞いや豊作祈願のために神前に奉
       納され、村の慶事には庄屋の家や村の道々を練り歩いて踊られたようである。
       明治以降は九月四日(秋祭り)の夜と奉納の日が定められている。
       昭和四十二年四月、県選択無形民俗資料に選択されている。」
  住  所:滋賀県甲賀郡信楽町牧75
  電話番号:0748−83−0432
  ひとこと:天御中主神は、古事記の中で、「まず最初に生まれ出た神」。
       そして、その名が、「天」の「御中」の「主」。
       やれ、キリスト教の「絶対神」の影響を受けているんじゃないかだとか、北
       極星の神格化だとか、いろいろと想像される神ではあります。

       では、古代日本人にとって、「天」の「真ん中」に存在すると考えられたの
       はなんだったでしょうか。

       太陽は、天に座す王ともいえる存在。
       しかし、それは天をめぐり、移動しますから、「真ん中」とは言い難い。

       月は移動するうえに、その姿まで変えますから、「どっしり真ん中」という
       イメージではありませんよね。

       自転・公転する地球上から見て、天を移動しないのは、やはり北極星だけな
       のでしょうか?

       北極星(北斗七星)に対する信仰ですぐに思いつくのは、妙見信仰ですよね。
       たしかに、「妙見」と名のつく神社では、天御中主神を祭ることが多いよう
       です。

       だけど・・・。
       そもそも、天御中主神と妙見が同一であったかどうかというと、たぶんそれ
       は違うのではないかと思います。
       あくまでも、その観念が習合して、天御中主=妙見という考えに至ったので
       はないでしょうか。

       さて、そう考えてみても不思議なのは、この宮の始まりは、倭姫がこの地に
       滞在されたことからだとか。

       倭姫命は、天照大神の鎮座地を求めて巡行した神女。
       その姫が滞在したことが宮の起こりならば、そのご祭神を天照大神とする方
       が自然ではないかと思うのです。
       実際、倭姫命が天照大神を奉じ天照大神をご祭神とする「元伊勢」が各地に
       あることを考えると、その方が自然だと思われるのです。

       しかし、そうはならなかった。

       なぜ、天照大神ご滞在の宮に、天御中主神なのでしょうね。

       この神社が信楽に鎮座することに、関係があるのでしょうか。

       信楽といえば、たぬき。
       そして、たぬきは・・・製鉄に非常にゆかりが深いと考えられています。

       まず、たぬきの皮は製鉄に使う「ふいご」に最適だとされています

       また、金箔を伸ばす際にも、たぬきの皮は活躍したとうことで・・・。

       たぬきの金玉のしわを伸ばすと、 
      「たぬきの金玉八畳敷」
       なんていうほどでかいという話がありますよね。
       でも、実際たぬきの陰嚢を見てみると、別に普通・・・。

       そう、
      「たぬきの皮で金を伸ばすとよく伸びる」
       ということが、
      「たぬきの金の皮はよく伸びる」
       に転じちゃったらしいんですわ(^^ゞ

       なんてええ加減な・・・。

       とまぁそういうわけで、たぬきと「製鉄」「金細工」には関係が深いとい
       うのがわかりますよね。

       一応、食事に入ったお店で、
      「信楽に鉱山があるんですか?」
       と尋ねたら、
      「ある」
       とのことでした。 

       製鉄で「真ん中」。
       そう考えると、何を連想しますか?

       私には、「溶鉱炉」という言葉が浮かぶのですが。

       赤く燃える炉。

       さて、信楽は言わずと知れた陶器の村でもあります。
       陶器もまた「火」。

       そうすると・・・。
       太陽の神がしばし鎮座した地。
       製鉄の地。
       陶器の地。

       私には、この「天御中主神」という神の背後に、炎が見えるのですが・・・。
       気のせいかもしれません。       

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