祭 神:市杵島比売命 説 明:境内案内板を転載します。 「御祭神は宗像三女神の一柱で、安芸の宮島の主祭神であることから「宮島さん」とも云われ、七福神 の「弁天さん」としても親しま れている。 当神社の起源は「姫の宮」と称して太古より日吉郷姫の宮(現在の南日吉町)に鎮座と伝えられ、醍醐 天皇の御代に制定された延喜式には式内社に列格されて、朝廷より格別の待週に預かり、時代と共に 国司、守護職、藩主の崇敬を受け、氏子庶民の信仰を集めた。 また、日吉鄉(市制施行当時の今治市全域)の一の宮であり、江戸時代には今治藩の雨乞の祈願所で、 その度ごとに藩主の参拝があり、毎年御蔵米の献納に預かった程であったが、故あって六千二百坪に 余る広大にして真顔、千年を超える歴史を経た姫の宮の社地から現在の净地に遷られたのは藩政時代 も後期のことであった。 明治四十一年鄉社に昇格、大正七年県社に列格された」 愛媛県神社庁の御由緒を転載します。 「「姫の宮」と称えて大古から日吉の里、姫の宮(現在の南日吉町)に鎮座と伝えられ、醍醐天皇の延 喜の制に式内社列格の栄に浴し、皇室より久しく特別の待遇に預かり、国司・守護職・領主をはじめ 庶民の信仰を集めた、また日吉郷(市制施行当時の今治市)の一の宮であった。 江戸時代今治藩の祈願所として雨乞い祈願の度ごとに藩主の参拝があり、毎年御蔵米の献納に預かっ た程であったが、故あって6,200坪に余る広大にして尊厳なる千年を越える歴史を残す姫の宮の 社地から現在の浄地に移転されたのは今から二百数十年前のことである。 明治41年郷社に昇格、大正7年に県社に列格される。」 住 所:愛媛県今治市宮下町3丁目1504 電話番号: ひとこと:「姫の宮」と呼ばれていたということですから、なにがしかの女神を祀ってきたお社なのだと思うの ですが、なぜそれが市杵島姫だということになったのか、あるいは最初からそうだったのか、由緒か らは読み取れません。 角川書店の「日本の伝説」には「姫坂伝説」について記載があります。 城山と呼ばれる島に殿様とお姫様が暮らしていたけれど、海賊に攻められて、殿様は討ち死に。姫は 断崖から飛び降りて死にました。 姫の遺骸から美しい着物を盗んだむごい村人もいたとか。 そしてその後、村には疫病が流行しました。 これは姫の祟りだろうということで祀られたのが姫坂なのだと書かれています。 でも、その姫坂は、むしろ広島に近いあたりにあったっぽいですね。 尾道市因島土生町あたりに「城山」の名のついたオーベルジュがあるのですが、 「かつてしまなみ全域を守ってきた村上水軍の出城であった長崎城跡地に」 とあるので、現在は陸とつながっているのかもしれません。 島ならば、イチキシマヒメが祀られた理由もわかるのですけれどね。