祭 神:瀬織津比咩命 事代主命 建御名方命 説 明:境内案内板を引用します 「創建は敏達天皇十三年六月(584)に瀬織津比咩がご出現。社殿の造営がなされた。 後栄枯盛衰が激しく平安時代初めには衰退し、社殿は大破した。しかし平安時代中期、一条天皇 の長保三年(1001年)社家の遠祖源朝臣信栄が社勢を再興。 室町時代に入ると駿河・遠江を領有する今川氏の崇敬を受けたが、戦国末期に武田・徳川両氏の 高天神城争奪の地となり、社殿はじめ神宝、旧記、古文書の大部分を焼失。 江戸時代に神官信盛が再び興し、徳川家の崇敬を受け、明治維新に至るまで、地頭の祈願所とな っていた。 享保十六年(一七三一年)には正一位の神階宣旨を受け、本殿は宝暦十年(1760)、拝殿は 元文四年(1739)に、時の大宮司従四位下佐倉部大輔源朝臣信幸が造営し、その名を池宮天 王社とも称され、現今に至る」 住 所:静岡県御前崎市佐倉5162 電話番号: ひとこと:この神社は、仏教との関わりも深く、境内にある桜ケ池は、皇円阿闍梨が入定した池とされてい ます。 また、この池には龍神が棲み、法然上人の功徳により昇天したという話しも。 でも、私がこの神社を訪れたのは、多分仏教以前の伝説に惹かれてです。 神社で配布されている『桜ケ池の伝説』を引用しましょう。 「桜の前物語 一条天皇御宇(986~1011)、国司藤原某、入国の時、京より桜の前という美姫を供した り。或る時、今の女池の辺りで従者と共に宴を張りたるに、宴酣の頃、俄然池水揺動し、洪波岸 に迫りて姫を池中に引き入れ、遂にその所在を失いたり。 国守大いに怒り、柴薪を積み数万の鉄石を焼爛し、池中に投入す。池水沸騰し、時に忽然として 異体異形の怪物池上に現れ、形牡牛の如く、額に白角を戴き、見るもの驚愕す。忽ち南方に走り、 駒を害したり。この地を『駒取』と称す。また南方に走り、見えつ隠れつ忍びて通いたる地を、 『忍沢』と謂う。 それよりまた東に走り、再び元の道に戻りて、其の所在をくらませりと。今此の地を牛が返りた る故、『牛返』と謂う。この伝説によって今だに地名を残している」 池の主に美姫が攫われる話しは各地に残りますが、蛇ではなく牛というのが珍しい。 牛は雨乞いの生贄になることが多いので、混同したんでしょうか? そして、多くの場合、池の主たる蛇は鉄を嫌います。 針を刺されて命を落とすとか、池に針を浮かべることで退治されたりとか。 ここでは、まんま溶鉄を流しいれてますよね(^^ゞ 大胆だ。 ……でももしかしたら、これが原型なのかもしれません。 熱した鉄を陥れて、池を殺してしまうという、なんらかの攻め方があったのかも。 そして、姫の名は桜の前ですよね。 ご祭神の瀬織津姫命は祓い清めの神ですが、桜は鎮魂の花とも言います。 奥曽爾にある屏風岩公園で、管理人さんから、 「曽爾にかくもたくさんの桜があるのは、人を葬るたび、墓碑代わりに桜の苗木を植えたから」 と教わりました。 つまり、魂を鎮める花と考えられていたからでしょう。 桜の樹の下には屍体が埋まっているという梶井基次郎の「直感」は、多分、大きく外れていません。 瀬織津姫を祀る神社はそう多くありませんから、古来ここでどんな神祭りが行われてきたのか、興 味がそそられちゃいますよね。