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宝満宮竃門神社

kamado_fukuoka




  祭  神:玉依姫命 応神天皇 神功皇后
  説  明:ご由緒記を転記します。
      「由緒
       福岡の人々に親しまれ、九州で一番登山者が多いと言われる宝満山は、貝原
       益軒の『筑前国続風土記』に、『この山は、国の中央にありていと高く、筑
       紫の国の惣鎮守と称す』と書かれています。福岡平野の中央にあってひとき
       わ高く美しい山に、太古から人々は神を感じてきました。
       
       三つの名を持つ山
       私たちが『宝満山』と呼びならわしているこの山は、『御笠山』『竃門山』
       とも呼ばれてきました。『御笠山』が最も古く、二日市方面から望む『笠』
       の形をした美しい姿から名付けられたもののようです。古来『笠』は神の憑
       代とも考えられ、我々に多くの恩恵を与えてくれる山として信仰されていた
       ことが分かります。
      『竃門山』という名の由来は、この山の九合目にある竃門岩によるという説と、
      『筑前国続風土記』には、この山が、カマドのような形をしていて、常に雲霧
       が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上がっているよう
       に見えるので竃門山というのだと書いてあります。これは大宰府天満宮方面
       から見る山の姿です。
       多くの方にも親しまれている『宝満山』の呼び名は、神仏習合によってこの
       山に鎮まります神が『宝満大菩薩』とされたところから、山伏の活躍と共に
      『宝満山』の名称が広く浸透して今日に至っています。
       
       大宰府鎮護の神
       この宝満山で神祭が行われた始まりは、天智天皇の御代、今から1300年
       以上も昔、九州一円を統治する大宰府政庁が現在の都府楼跡の地に遷された
       時、奇問に当たる竃門山(宝満山)に、西の都大宰府鎮護のための神が祀ら
       れました。
       頂上の上宮が建つ巨岩の下からは皇朝銭、奈良三彩など、奈良時代から平安
       初期の国家的な祭祀が行われたことを示す数々の品々が出土し、遣唐使派遣
       との密接な関係も指摘されています。ある時は大宰府の平安を願って祭祀が
       行われ、またある時は遣唐使の航海安全や外敵からの守護が祈られてきたの
       です。
       
       玉依姫命と竃門神社創建
       天武天皇二年(673)には、心蓮上人がこの山に籠って修業中に玉依姫命
       が現れ、朝廷によって上宮が建てられて、これが竃門神社の創建となります。
       爾来、大宰府の宮人の崇敬は厚く、公の祭祀が行われ『延喜式』に名神大社
       として記載されています。
       神社の草創と同時に下宮・内山周辺にも寺院が建てられ、この山の寺の名と
       しては『竃門山寺』『大山寺』『有智山寺』等と称されてきました(後略)」
  住  所:福岡県太宰府市内山883
  電話番号:092-922-4106
  ひとこと:現在、この神社は「縁結びの社」として代々的にPRされているようで、若
       いカップルや女性たちでごった返してました(^^ゞ
       
       社務所はまるでブティックみたいだし、お守りも狙いすぎな感があるし(^^ゞ
       
       境内には、神功皇后が再会を誓ったという「サイカチの木」や、恋占いのた
       めの「愛敬の岩」などが点在していて、ちょっと引いてしまったのですが。
       
       玉依姫の出現により「かさ」の地に建てられた神社という意味では強く引き
       つけられます。
       
       今回の九州旅行では、「玉依姫」がついて回りました。
       玉とはつまり、魂でしょう。
       神の依る(憑く)姫であれば、それは巫女のことを指す一般名称であると考
       えても無理はないと思いますが、そこに「かさ」が重なると、私が追いかけ
       ている、「女性の病を治す悲願を打ち立て、各地を流浪する女神」にもつな
       がるんですが……。
       
       なにしろ、文化圏が違うんで、簡単にそう言ってしまっていいとは思えませ
       ん。
       
       でも、面白いよね。
       
       次に九州を訪れる際は、もう少し深く観察したいと思います。
 

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