祭 神:彦坐命 鴨県主命 治田連命 説 明:由緒書から転載します。 「我が国最古の氏族志たる『新撰姓氏録』(平安朝初期)の中に、『鴨県主・治田連・同祖彦坐王之 後也』とあり、鴨県主・治田連は、開化天皇の皇子・彦坐王の後裔である。 近江の国の浅井郡治田郷の治田連の氏人が、当地に移住して治田郷を作り、また、その祖先の鴨県 主の氏人も移住して来て氏神を祀ったのが当社であろう。治田は、開墾された後の地名であり、墾 田を意味する『ハリタ』が訛ったものと思われる。 賀毛神社は、『延喜式内員弁十座』の一つに数えられる古い神社である。創建年代は不詳ではある が、延喜年代(901〜922)と推定される。 『賀毛』の二字は、土地により、賀茂、加茂、鴨などがあり、賀茂族は全国的に分布しているようで ある。 中古までは、神田も多く、社殿も宏麗であったが、天正二年(1574)頃、長島一揆の残党が、当社 の別当寺である興正寺に立て籠もったので、織田信長の軍勢に焼き討ちされ、賀毛神社も類焼し、 全て烏有に帰して荒廃した。 その他の文献や口碑によれば、治田は、縄文時代から、丘陵地帯に人が住み着いていたと言うこと であるが、それは縄文遺跡などの発掘により確認されている。西は鈴鹿山脈からの多志田川と青川 の清流が東へ流れて、員弁川に合流している。 慶長年代(1610年頃)、治田鉱山の採掘により、徳川幕府の天領となり、その後、桑名藩主の領地 となり、神田及び幣帛料を寄進せられ、社殿も復興した。 享保十一年(1726)には、上総国(千葉県)一ノ宮藩主・加納遠江守の支配となり、藩主の尊崇を 得て興隆した」 住 所:三重県いなべ市北勢町垣内718番地 電話番号:0594-72-3443 ひとこと:賀茂氏はあちらこちらに散らばったんですね。 地元のご家族が、楽しそうにお参りされていました。