祭 神:武甕槌命 經津主命 天津兒屋根命 比淘蜷_ 説 明:大和史蹟研究会発行の「大和の伝説」から引用します。 「笠神の森(大和高田市春日町) 春日町笠神に笠神の森があって、老樒が茂っていたが、近年、この辺に人家 が建って、わずかに跡をとどめているだけになった。静御前が病を養ってい た遺跡と伝えられ、付近の道路は嫁入りが通らない。(大和高田市史による) 磯野禅尼の故郷(大和高田市磯野町) 磯野は静御前の母、磯野禅尼の故郷だといわれる。静御前が鎌倉から京都に 帰ってのち、母の故郷、磯野を慕い、三本松・笠神の森などで病を養い、こ の地で終わったと伝え、磯野の東北方の藤木にその塚があるという(大和高 田市史による) 静御前衣掛松 高田高等学校の運動場に三本松があった。昭和になって最後の一株も風害で 倒れ、今は跡かたもないが、もとは古墳のあとであった。昔、この松は静御 前衣掛松といわれていた。(大和高田史による)」 住 所:奈良県大和高田市磯野 電話番号: ひとこと:磯野にある春日神社なので、もしかしたら、静御前と磯野禅尼に関係がある のかな〜〜〜……と参拝してみました。 詳細はわかりません。 しかし、この「磯野」の「磯」について、磯野環濠集落にあった看板には、 こんな説明があったんです。 「大和平野には、堀(濠)に囲まれた、いわゆる環濠集落が多い。 濠には水を湛え、水利と村落防衛のために造られたと考えられている。 大和高田市域にも、有井、池尻、松塚、土庫、藤森などに環濠が残っている が、何れの環濠も、水利の変遷、住宅開発などにより姿を消しつつある。 磯野は『延喜式』神名帳に『石園坐多久豆玉神社』とある石園のことであろ う。」 なぜ、海のない奈良県のしかも真ん中あたりに、「磯」なのでしょう? しかも、石園坐多久豆玉神社は別名を「龍宮」。 不思議ではありませんか? 磯といわれて私が一番に思いだすのは、「磯良」です。 「磯良」は、海の民ともされる安曇氏の祖神。神功皇后の三韓遠征の際は、 案内役として活躍したとも言われます。 太平記に、神功皇后から招かれたとき、「顔に牡蠣やらアワビやらがついて いて醜いので」と辞退したという話があるのは有名でしょう。 つまり、顔がゴツゴツとしていて醜かったということで、「かさ」……「瘡」 を連想させるのです。 静御前が祈ったのは、「笠神の森」。この「笠」もまた、「瘡」に通じます。 「瘡」は、ハンセン氏病や天然痘のほか、梅毒もこれに入ったでしょう。 つまり、「花柳病」=「婦人病」もまた、「瘡」ではないかと思うのです。 白拍子であった静御前が患った「瘡」はなんなのでしょうね? そしてなぜこの「磯の野」は、このように「瘡」とご縁が深いのか。 「龍宮」とはつまり「異界」です。 昔、「異界」とは、「異能の人が住む場所」でもあったのではないかと思い ます。 神職さんたちが、霊能を得るために片目をつぶしたと言う話は有名でしょう。 つまり、「龍宮の磯人たち」は、肌に瘡を持つことによって、霊能……清め の能力を持つに至ったのでは……と。 あくまでも想像でしかありませんが、往古の人々は、彼ら異界の人々を、恐 れながらも崇めていたのではないかと思えてなりません。 だからこそ「龍宮」と。 静御前の伝承を追っていると、彼女がなぜこの「磯野」で、「磯野の長者」 の娘として生まれたのか、そして悲運の英雄・義経に愛され、そして彼を隠 し守ることができたのか。 義経千本桜の中で、源九郎狐に守られたのか。 そしてまたこの磯野の地に戻り、亡くなったのか……。 考えずにいられません。 そして彼女にすがり、女神として崇め奉った人たちはどのような女性だと思 いますか? そんなことを考えれば考えるほど、静御前は魅力的なのです。