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河桁御河辺神社

shizuka




  祭  神:天之湯河桁命 (配祀)瀬織津比当ス 稻倉魂命
  説  明:境内案内板を転記します。
      「当社の創設は古く、人皇二十九代宣化天皇四年に、神崎の郡司・玉祖宿禰磯戸
       彦連が神勅により、五穀豊穣・万民長薬の神として勧請せられた。中古より、
       三河辺大明神と称えられ、淳和天皇の天長二年には、弘法大師が当社に参詣さ
       れ、十七日間参籠されたと伝えられています。
       延喜二年に当社を神名帖に加えられ、川桁神社として官幣を賜り、神領を封下
       されました。
       当社は愛知川の水上にて比川の北東の源は、即ち君ケ畑にて、惟喬親王の宮居
       があり、比辺を総じて御園と称し、川の名を御川という。其の御川の辺にまし
       ます御社にて、御川辺神社と称し、御園地域の総社として称えられ、明治十六
       念に現在の社名となりました。
       社殿は建武年間と応仁、文明の兵乱で焼失。さらに天正十年の兵乱にも会い、
       破壊と復興を繰り返し、現存する本殿は、慶長十五年(1610年)造営のもので
       す。
       この本殿の前には国の重要文化財に指定された鎌倉時代の六角石燈籠がありま
       す。
       火袋に次の銘文がある。
       十八日造立え
       延慶二二年辛亥卯月 願主 沙門僧聖円
       主なる神事
       一月十五日   粥占い神事
       二月一日    疾病災厄祓祭(ヤマヨゲマツリ)
       二月十一日   祈年祭
       三月第三日曜日 例大祭(ハダカマツリ)
              『江州社寺中行事』に有名な裸祭は、当社の例祭にて、古代の
               式典を今に伝えるもので、六人の頭人が馬に乗り、神馬・神
               主と共に一里余の道を渡御する祭りである。
       四月二十八日  講社祭祈祷祭
       九月第一日曜日 秋祭(アマザケマツリ)
       十一月二十三日 新嘗祭」
  住  所:滋賀県八日市市神田町381
  電話番号:
  ひとこと:天之湯河桁命とはたぶん、アマユカワタナのことでしょうね。
       ホムチワケの魂が変じた白鳥を、はるか鳥取の地まで追いかけて捕まえてきた
       人物です。
       そういう神様が、なぜ「五穀豊穣・万民長薬の神」とされたのでしょうね?
       
       創建は宣化天皇四年ということですから、西暦539年。
       勧請したのは、玉祖宿禰。
       
       う〜む。
       なんかすごく不思議な気がしませんか?
       
       どうもつながらない気がしてならないんですが(^^ゞ
       
       瀬織津姫は清流の女神ですから、「川辺神社」に祀られるにふさわしい女神で
       はあります。
       でも、アマユカワタナとの関わりがわからないと言えば、わからない。
       
       キーは、折口信夫の「水の女」第十二章「たなばたつめ」です。
       青空文庫のものを引用させていただきます。
      「ゆかはの前の姿は、多くは海浜または海に通じる川の淵などにあった。村が山
       野に深く入ってからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだところなどを択ん
       だようである。そこにゆかはだな(湯河板挙)を作って、神の嫁となる処女を、
       村の神女(そこに生れた者は、成女戒を受けた後は、皆この資格を得た)の中
       から選り出された兄処女が、このたな作りの建て物に住んで、神のおとずれを
       待っている。これが物見やぐら造りのをさずき(また、さじき)、懸崖造りな
       のをたなと言うたらしい。こうした処女の生活は、後世には伝説化して、水神
       の生け贄といった型に入る。来るべき神のために機を構えて、布を織っていた。
       神御服はすなわち、神の身とも考えられていたからだ。この悠遠な古代の印象
       が、今に残った。崖の下の海の深淵や、大河・谿谷の澱のあたり、また多くは
       滝壺の辺などに、筬の音が聞える。水の底に機を織っている女がいる。若い女
       とも言うし、処によっては婆さんだとも言う。何しろ、村から隔離せられて、
       年久しくいて、姥となってしもうたのもあり、若いあわれな姿を、村人の目に
       印したままゆかはだなに送られて行ったりしたのだから、年ぱいはいろいろに
       考えられてきたのである。村人の近よらぬ畏しい処だから、遠くから機の音を
       聞いてばかりいたものであろう。おぼろげな記憶ばかり残って、事実は夢のよ
       うに消えた後では、深淵の中の機織る女になってしまう。
        七夕の乞巧奠は漢土の伝承をまる写しにしたように思うている人が多い。と
       ころが存外、今なお古代の姿で残っている地方地方が多い。
        たなばたつめとは、たな(湯河板挙)の機中にいる女ということである。銀
       河の織女星は、さながら、たなばたつめである。年に稀におとなう者を待つ点
       もそっくりである。こうした暗合は、深く藤原・奈良時代の漢文学かぶれのし
       た詩人、それから出た歌人を喜ばしたに違いない。彼らは、自分の現実生活を
       すら、唐代以前の小説の型に入れて表して、得意になっていたくらいだから、
       文学的には早く支那化せられてしもうた。それから見ると、陰陽道の方式など
       は、徹底せぬものであった。だから、どこの七夕祭りを見ても、固有の姿が指
       摘せられる。
        でも、たなばたが天の川に居るもの、星合ひの夜に奠るものと信じるように
       なったのには、都合のよい事情があった。驚くばかり多い万葉の七夕歌を見て
       も、天上のことを述べながら、地上の風物からうける感じのままを出している
       ものが多い。これは、想像力が乏しかったから、とばかりは言えないのである。
       古代日本人の信仰生活には、時間空間を超越する原理が備っていた。呪詞の、
       太初に還す威力の信念である。このことは藤原の条にも触れておいた。天香具
       山は、すくなくとも、地上に二か所は考えられていた。比沼の真名井は、天上
       のものと同視したらしく、天ノ狭田・長田は、地上にも移されていた。大和の
       高市は天の高市、近江の野洲川は天の安河と関係あるに違いない。天の二上は、
       地上到る処に、二上山を分布(これは逆に天に上したものと見てもよい)した。
       こうした因明以前の感情の論理は、後世までも時代・地理錯誤の痕を残した。
        湯河板挙の精霊の人格化らしい人名に、天ノ湯河板挙があって、鵠を逐いな
       がら、御禊ぎの水門を多く発見したと言うている。地上の斎河を神聖視して、
       天上の所在と考えることもできたからである。こうした習慣から、神聖観をす
       ために「天」を冠らせるようにもなった。」
       
       アマユカワタナとは、神迎えする神の嫁、聖なる乙女・タナバタツメのために
       川辺にたてられた小屋の名だと言うのですね。
       
       そう考えるなら、「川辺神社」にアマユカワタナは非常にふさわしいことにな
       ります。
       
       そして……、瀬織津姫は、タナバタツメとしてここに勧請されたのだと考えれ
       ば非常にしっくりきませんか?
       
       玉祖連の祖神は、言うまでもなく玉祖神です。
       大阪は八尾市にある恩智神社の「恩智大明神縁起」によれば、玉祖神が大阪へ
       やってきたとき、まず住吉神に土地を譲ってほしいと頼んでいます。
       しかし、住吉神は「私の土地は狭いから」と断り、「恩智神に頼んでみなさ
       い」と薦めました。
       そこで現在、玉祖神社は恩智神社のそばに鎮座するわけです。
       
       恩智神社は「祓いの総社」ともされます。
       タナバタツメは川辺で神に仕えたのですから、禊祓いにも非常に深い関係があ
       るはず。
       
       こうしてみると、この神社の色合いが、鮮明に見える気がしてならないのです
       が……。
       
       いかがでしょう?

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