祭 神:八十枉津日神 大直日神 神直日神 底津少童神 中津少童神 表津少童神 底筒之男神 中筒之男神 表筒之男神 説 明:境内案内板から転載します。 「十代崇神天皇の時、物部八十手がこの地に、八十柱津日神を祀り、のち将軍彦坐甥の地が丹波の賊 を征伐した時、当地において神託があり、神社を創建されたといわれている。 また、木梨軽太子が神前に幣帛をささげられた因縁から、社号を木梨神社と呼ぶようになったとい われている。六十代醍醐天皇(平安時代)の時、将軍多田満仲公がこの里に大池(多田池)を築造 され、同時に満仲公によって再建された由緒ある神社で、延喜式の神名帳に記載された式内社であ り、天皇の勅使参向の官社であった。のち、この大池に大蛇が済むようになり、藤田三郎太夫行安 が当社に祈願して、これを退治した伝説は有名である。その後、藤田明神とも聖九社明神とも呼ば れたことがあり、明治六年(1873)十一月郷社格に加列され、大正八年(1916)二月に神饌幣帛供 進社に指定される。 多田池の伝説 摂津の昆陽池のそばを通りがかった巡礼が、若い女から小さな文箱を託されました。 女の頼み通り多田池までやってきて、めあての家を探しましたが見当たりません。 しかたなく箱を開けますと、手紙ではなくて小さな蛇がすべり落ち、草むらに隠れました。 それから数十年の後、池のほとりの氏神様へお参りの人々を、大蛇が表れて呑んでしまうようにな りました。これがあの小さな蛇の成長した姿だたのです。 そのころ、藤田村に三郎太夫という若者がいて、村人の難儀を救おうと決心しました。 火薬を大きな瓢箪に詰め、それを藁に包んで人形を作りました。それを社前に置き、鈴を鳴らしま した。まもなく大蛇が現れ、人形をひと呑みにしました。やがて腹の中で火薬が爆発し、大蛇はく るしさにのたうちまわりました。苦しんではねまわったため、多田池の堤防が切れ、水が流れ出し、 たくさんの家が流され、ずっと下流でとまったのが、今の家原なのだそうです。 又、その時、氏神の神主が祈って、御幣を振りますと、水が逆様に流れて多くの人が助かりました。 そこを今でも『逆川』と呼んでいます。 大蛇が苦しんではねまわったところは、『蛇ころび』といい、未だに草木は生えていません。 又、少し離れたところの岩は、『蛇枕』の名があります。こうして水のすっかり無くなった池の底 は、豊かな水田となり、人々が住むようになりました。『民話より』」 住 所:兵庫県加東市藤田473 電話番号: ひとこと:昆陽池からやってきた蛇が大きくなり、この神社の氏子を喰らった。 素直に読み解けば、昆陽池から移住してきた人たちが、この村を襲い、苦しめた歴史を物語化した ものではないかと思いますが、昆陽池からの移住者は、なんのためにここへ来たのでしょう。 奴隷として? それとも、用心棒として? あるいは交流のために? それによって、物語の感想がずいぶん変わりますね。 それに、多田満仲公が絡んでいます。 多田満仲公は、九頭龍退治の英雄。 彼の子孫には鵺退治の源頼政や、鬼退治の源頼光がいます。 鬼や鵺、龍、そして大蛇も、敵の暗喩でしょう。 彼らはまさに「用心棒」の血脈なわけです。 でも、蛇は「多田池」に巣食ってます。 大蛇がもし、多田満仲公の子孫なのならば、用心棒として雇い入れた人たちが、村人を苦しめたこと になるわけで、けしからんような……。 でも昆陽池あたりは多田満仲公にゆかりがあったって話聞かないと思うから、違うかな。 そして、唐突な「木梨軽太子」。 彼の父である允恭天皇の都は、丹比柴籬宮……つまり現在の松原市となっています。 軽太子が伊予に配流されるときに立ち寄ったって話でしょうか? それにしても海から遠すぎるような。 そしてそもそもこの地にこの神社があるのは物部八十手によるんですね。 御祭神は黄泉の穢れから生まれた神々……。 どうにもこうにも、盛りだくさんっていうか、意味深っていうか、いろいろ盛りだくさんな神社です。