祭 神:神日本磐余彦命(神武天皇) 興世姫命(興世明神) 説 明:ご由緒書を引用します 「延喜式神名帳に記載された古社である。 神武天皇を祀る。昔は高島に在りしを移転したるなりとの伝説あり。 創建は奈良時代(726)神亀三年、室町時代(1547)天文一六年本殿の御造営が行われる。大正一五年八 月一五日第六回の改修工事を行う。 文武天皇 嘉祥四年正月庚子正六位に叙す。 清和天皇 貞観元年廿七甲申従五位下に叙す。 備中十八神の一にして現今村社たり。 海神系統の社なる。昔より興世明神(オキヨミョウジン)の称あり。 神武天皇(神武天皇と言われる名は、奈良時代に定められたおくり名であり、それまでは神日本磐余彦命『カン ヤマトイワレヒコノミコト』と呼ばれていた。) 興世姫命『オキヨヒメノミコト』、この御陵坐を祀る。 命は、皇祖神考神聖にして日向より東征の砌、吉備高原に八年間駐屯された。その後海上より熊野に至り、大和 平定後、橿原の地に第一代践祚の大偉業をなされた。 妃興世姫命は、部下を率いて当地に駐留され、天業を扶翼された。 近郷住民は、命たちの高き問う時御神徳を畏みて一大崇敬・産土神と斉しき祀った」 」 住 所:岡山県笠岡市神島外浦1706番地 電話番号: ひとこと:この地は、ほんの近年まで島だったみたいです。 宮司さんによれば、興世姫は九州から、神武天皇に付き従ってやってこられた方であり、この地の方ではないと か。 吾平津姫の別名かもしれません。 なぜこの地に残ったかについては、 「戦に行くということで、か弱い女性は連れていけなかったのでは」 と推理されていました。 でもね。 古代の女性は、夫の戦についていくことも多かったじゃないですか。 それは例えば、戦場での「慰み」のためだとか、生贄要員だとか、いろいろ言われますし、だからこそ、高位の 女性ではなかったという説もありますけども。 だけど、須勢理姫のように、夫を守るために命を燃やすような女性もいたと思うんですね。 興世姫はなぜ、この地に残ったのか。 個人的にはいろいろ考えちゃいますね(笑)