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日下神社

kusaka

kusaka

神社が鎮座する丘?




  祭  神:若日下部王
  説  明:旧河澄家のニュースレターを引用します。
      「日下神社古墳
       旧河澄家のある日下町には日下神社があります。この日下神社が祭られている丘は横穴式石室
       を持った古墳で神社本殿下に完存しているとのことですが、その由緒や祭神など詳しいことは
       あきらかになっていません。
       古代の日下町は、河内潟のもっとも奥まったところにあり、草香津という港により西側の難波
       の海と水路で結ばれ、東側は日下の直越(ただごえ)の道で生駒山系を超えて大和からの最短
       ルートで結ばれた交通の要所であった場所です。
       また日の下と書いて日下と読むこの地は、太陽が昇る地として崇められ日神信仰の原点ともい
       うべき聖地でもありました。瀬戸内を通ってやってきた弥生時代の渡来人は難波の中でも最も
       東にある草香津に上陸し、そこを太陽の昇るところとみなしたことに由来しているのかもしれ
       ません。
       和同五年(712)に完成した『古事記』を撰述した太安万侶は、その序文で『日下をクサカと
       よむ類は元のままにして改めない』と、そのままでは読みづらい日下という名前について古く
       からの読み方を敢えて修正しないことを記しており、日下を古くからクサカと読まれていたこ
       とがうかがえます。
       その『古事記』には、日下には五世紀前半に仁徳天皇の子であった大日下王と、その妹で後に
       雄略天皇の皇后となった若く和歌部王、別名で草香幡梭姫皇女が居住していたことが述べられ
       ています。大日下王と、若日下部王の兄妹には、それぞれ大日下部、若日下部という御名代が
       直轄地として与えられていたという記述もあります。すなわち日神信仰の聖地で日神のために
       神衣を織る巫女的女性であったのではないかと考えられています。その若日下部王を后とする
       ために雄略天皇は日下の直越の道を辿って大和から日下へ妻問いにやってきたことも『古事記』
       に述べられています。
       その後、大日下王は讒言によって安康天皇によって殺害され、その子眉輪王も雄略天皇に滅ぼ
       されましたが、雄略天皇の皇后である若草香部王の御名代を引き継いだ日下部氏はその後も、
       聖地日下で日神信仰の祭祀を執り行う集団として、御名代の管理を継続し、軍事的にも勢力を
       維持し続けていたともいわれています。
       日下町の端の山麓に位置するイノムラキ古墳は日神信仰の祭祀を執り行ったとされる日下部氏
       が築いたものではないかとされていますが、その麓にある日下神社古墳についても同様に日下
       部氏が彼らの祖である若日下部王を祭ったものではないか、またその上に築かれた日下神社の
       祭神は、若日下部王ではないかという可能性も浮かび上がってきます」
  住  所:大阪府東大阪市日下町1丁目
  電話番号:
  ひとこと:若日下部王が好きなんです。
       暴虐とされた雄略天皇がメロメロになった皇后。
       誰かから諫められたりしようもんなら、殺すこともいとわなかった雄略天皇ですが、皇后から
       諫められると「こんな素敵なアドバイスをくれる奥さんをもらった僕は、なんて幸せなんだろ
       う」みたいなことを言ってますからね(笑)
       
       若日下部王を祭る神社は他にないので、「一説には」だとしても、参拝にいきたかったんです。
       
       古墳が完存する丘の上に鎮座する……と説明にありますが……丘???
       よくわかりませんでした(^^ゞ
       
       若日下部皇女が雄略天皇の皇后となるまでにひと悶着があります。
       雄略の兄である安康天皇は、弟の妻になってほしいと、若日下部皇女の兄大日下部王のところ
       に使者を遣わします。
       
       すると、大日下部王は喜んでそれを請け、その証として「押木珠縵」を授けるんですね。
       その押木珠縵が禍の種。
       使者はこれがほしくなり、安康天皇に「大日下部王が従いません」と報告します。
       弟とよく似て怒りっぽい安康天皇は、怒り狂って大日下部王を殺害。
       その妻である中蒂姫を后にします。その連れ子が眉弱王。
       安康天皇は眉弱王により殺害されます。
       
       押木珠縵は押木で作られた腕輪ってことになりますが、押木はどうやら梓ではないかとのこと
       でした。
       
       梓っていえば「梓弓」って単語が連想されますけど、つまり弓に使われるくらい固い木なよう
       です。
       でも白檀のように薫り高いとか、色が綺麗だとかは聞かないし、そんな腕輪のために数々の不
       幸が引き起こされたってのはどうも不自然な気がする。
       
       むしろ、若日下部皇女の入内が、複雑な禍を引き起こしたと考える方が腑に落ちるかな。
       
       ここ、日下村の起源であり、日の神の巫女であった若日下皇女。
       暴虐な夫も、彼女にだけは頭が上がらない。
       優しく気品がある、美しい女性。
       
       そしてもう一つ気になる話があります。
       雄略天皇が若日下部皇女に求婚に行ったとき、途中で志貴県主の家を見て、
       「こんな立派な家を建てやがって!」
       と怒ったので、志貴県主は、白い犬に二種類の絹の布をかけて、立派な金の鈴をつけて献上し
       た……なんて話が挿入されてたことも、改めて認識しました。
       
       白い犬に絹と金の鈴。
       これになんの意味があるのでしょうね?
       
       志貴県主の家のあった場所は今神社が建っていますが、このすぐそばに住んでらっしゃる歴史
       学者の古田実先生には何度かご教授いただきました。
       実はこの神社の境内に、楠木正成が橘を植えたって話があるらしいんですよ……。
       
       楠木正成は私が追いかけてる武将でもありますし、「橘」は垂仁天皇に深い関わりがある果実。
       ……ふむ。
       
       いや、謎を解き明かせば、志貴県主神社は河内の総社なんですね。
       で、楠木正成は河内国造だったので、何度も参拝に来たはず。
       縁が深いのです。
       そして彼は橘氏を自認していたと言いますから、話しはつながるんです。つながるんですけど
       ね……。
       「符合」であることも事実です。
       
       雄略天皇の結納の品は、他者から受け取った白い犬、絹、そして金の鈴。
       若日下部皇女を巡って数々の不幸が起きている。
       
       そしてさらに、彼女のお母さんは日向の髪長姫なんですよ。
       
       彼女が応神天皇の妃になるべく日向から大和へ向かうとき、彼女に付き従った人々はみな鹿の
       皮をかぶっており、その行列は、鹿の群れに見えたとか。
       髪長姫を見た仁徳天皇は心を奪われ、密かに通じてしまいます。
       
       仁徳天皇といえば、大鷦鷯。
       アイヌ神謡で、ミソサザイはトリシポッという名の勇敢な神で、誰も手を付けられなかった暴
       れ熊の耳から頭の中に飛び込み、脳みそを食い荒らしてこれを殺したとあります。
       で、仁徳天皇といえば、似たような話があるでしょう?
       陵地を視察した帰り、鹿が飛び出してきて死んだ。
       調べると耳からモズが飛び出してきて、脳みそが食い荒らされていた……と。
       
       なぜ熊と鹿(髪長姫)、ミソサザイ(仁徳天皇)とモズを置き換えなければならなかったのか。
       いや、原話がどっちかなのかはわからないけれどもさ。
       気になりませんか。
       
       考えようによっては、髪長姫は「手の付けられない力をもっていた姫」で、勇敢な仁徳天皇は、
       決死の覚悟で彼女の力を封じ込めたってことを暗喩してるととれなくもない(笑)
       
       そしてそういうややこしく難しい父と母から生まれてきたのが若日下部王なんですよね~。
       
       さて、記紀編纂者は、彼女にいったいどんな影をまとわせたかったのでしょうね。

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