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松帆神社

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  祭  神:應神天皇 神功皇后 仲哀天皇 
  説  明:境内案内板を転載します。
      「建武中興の忠臣、楠木正成が湊川の戦で自刃の砌家臣吉川弥六に日頃守護神と崇
       めていた八幡大神を託す。
       弥六は仲間と共に淡路に逃れ来て小祠を建てこれを祀り、この地を楠木村と称し
       た(現在の楠本)。
       応永六年(1399年)八月に現在の地に奉遷し、八幡宮として創建せされて以
       来浦・仮屋・小田の氏神として信仰を集めている。
       社宝は楠公遺愛の太刀と伝えられる『菊一文字』。この太刀は後鳥羽上皇が院政
       の砌、全国の名刀工を召し出され、共に親しく鍛刀遊ばされた際の筆頭御番鍛冶、
       備前福岡一文字則宗の作で『菊御作』の鑑定があり、その刀姿・刃紋の美しさも
       さることながら、その拵え(柄・鞘・鍔)も実に貴重なものであるとして、共に
       国の重要美術品に指定されている。
       例祭は十月の第一日曜日で、その際、一般公開される。」
  住  所:兵庫県津名郡東浦町久留麻256
  電話番号:0799−74−2258
  ひとこと:まさか淡路島で楠公さんに出会うとは思ってませんでした。

       楠木正成公について、ご存知のない方もおられるでしょう。

       河内で生まれ、育った私にとっては、河内判官であり、河内の英雄であった楠公
       さんは、超有名人なのですが・・・、残念ながら、それは全国的なものじゃない
       みたいです(笑)

       楠木正成公は、南北朝時代、不利とされた南朝につき、一時的にとはいえ、南朝
       方のボス・後醍醐天皇を皇位に昇らしめた武将です。

       勿論、南朝方の武将にもいろいろいるのですが、太平記の中で、楠木正成公は、
       特別に描かれています。

       彼は、もともと、「河内」という片田舎の武将でした。
       それが、何故、天皇に頼られるようになったか。
       それは、不思議なエピソードがあるのです。

       不遇の日々を送っていた後醍醐天皇は、ある夜、夢を見ます。

       大木の南側の席に、立派な席が用意されています。
       しかし、着座している者はなく、
      「誰のための席だろう?」
       と不思議に思っていると、二人の神聖な童子が登場し、
      「これはあなた様の席でございます」
       と、後醍醐天皇を導くのです。

       木の南・・・そう、楠ですね。

       そこで、後醍醐天皇は楠という名の武将を探し、河内で武勇を知られていた正成
       公が見つかるわけです。

       そして、実際彼の働きは目覚しく、赤坂城の戦い、千早城の戦いで、知略をめぐ
       らせ、敵方を苦しめました。

       私が子供の頃、特に喜んで聞いたのは、彼の、「糞尿攻め」です。

       赤坂城も千早城も、山城です。

       敵は、山を登って城に攻め入らねばなりません。

       だから、正成公は、山の上から大岩を落としたり・・・岩がなくなると、今度は
       糞尿を熱く煮えたぎらせ、敵めがけて降り注いだんですね。
       いや〜たまらん(笑)

       つまり、ゲリラ的戦法に秀でた武将だといえるでしょう。

       しかし、南朝の世になった後、公家による横暴が原因で、多くの武家が離反。
       南朝の土台は傾きます。

       そして、最期まで南朝についた、楠木正成公は、湊川の戦いで自刃して果てます。

       私は、一応、小学館の現代語訳で、太平記は通読したんですけど、まず、呼称が
       ころころ変わる。

       楠公さんにしたところで、「河内判官」「楠木多聞兵衛」ほか、複数の呼び名が
       出てきます。
       覚えられるかいっ!!!

       しかも、「河内判官」ってのは役職ですから、例えば、楠木正成公が出世して、
       他の人が河内判官になることもあるわけです。
       ややこしいったらありゃしない。

       確か、「三位の局」と呼ばれた女性は、阿野廉子他2名ほどいたはずです。

       その上、個々の武将が、あっちにつく、こっちに寝返る、またこっちに復帰・・・
       ややこしいことこの上ないんです。

       ドラマかなんかで見る方が得策だと思われます(笑)

       ・・・は、まぁいいとして、つまり何が言いたいかと言うと、太平記に関しては、
       特に後半以降は、「裏切り者」満載なのです。

       その中で、褒賞が期待ほど大きくなくても、自分の提案を軽視されても、決して
       裏切らなかった武将、それが楠木正成公である。

       そういうことです。

       ・・・それが史実かどうかは別として、太平記にはそう描かれています。

       それが何故か。
       一つは、この物語を語り継いだ人々にとって、楠木正成公は、「身内」だったと
       いう可能性を考えます。

       物語を語りついた人々には、いろいろな職業の人がいるでしょうが、多くは流浪
       の民だったでしょう。

       楠木正成公は、運送業を営んでいた、という説があります。
       河などを利用し、荷物を運んだわけですね。

       そして、だからこそかどうかはわかりませんが、修験者のネットワークを掌握し
       ていた、と。

       全国を渡り歩く修験者の情報は、ありがたいものだったでしょう。

       ですから、そのネットワークを掌握していたということは、
      「もんのすごい情報通」であったということ。

       そりゃ、戦にも強いわ(笑)

       そして、そうであればこそ、太平記を物語して歩く、流浪の民に、楠木正成公は
       非常な親近感を持って語られたのではないか、と思うのです。

       そして、そうであれば、彼の領地であった河内でもなく、最後の地である湊川で
       もなく、他ならぬ淡路島に、彼の遺品「八幡大神」が安置されている理由も、な
       んとはなく分かるように思うのです。

       なぜだかはわかりませんが、淡路島は修験道の聖地だそうです。

       ある修験者さんの話では、理由はわからないけれども、修験道に関する建物は、
       淡路島を望むように建立されている・・・とか。

       淡路島は、修験者にとっては、ニライカナイ、常世、天国・・・そんなものだっ
       たのかもしれません。
       そして、そうだとしたら・・・。

       最期まで裏切ることをしなかった、楠木正成公の魂は、死して、常世に辿り着く
       ことができたのだ、そう思うと・・・。

       楠公さんファンとしては・・・。

       ぐぐぅ(T_T)

       いやぁ、涙なしには語れませんな(笑) 

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