祭 神:葦原志許男神 月夜見神 天日槍神 高皇産霊神 須佐之男神 説 明:境内案内板を転載します。 「神社の発祥 葦原志許男神は天日槍神と共に、いわゆる国土経営に際し、故墨志尓嵩ー今の高峰山ーにおわして、 土地を拓き、蒼生を定め、播北と但馬の地を統治されたが、こと終えられて、この嵩を出発されるに あたり、長かった行在の記念として、大神が自らの御杖を形見として山上に刺し植えられたことが、 播州風土記に見え、御形の社名もこの形見、即ち御形代から起こったといわれる。なおこの嵩の上に 大神の御徳業を慕い、神祠が営まれたが、これが御形神社の発祥である。 夜の間の杉と神社の創立 宝亀年間、みかたの里の山神の森に、一夜の間にひと抱えにあまる多すぎ三本が鼎形に生い立ち、そ の夜近傍の里人数十人霊夢を見たといい、これはまさしく大神ご遷座の奇瑞であると早速里人はこの 森を開き、鼎立した大杉の中心に、社殿を造営しー宝亀三年故墨志尓嵩より大神を遷座ーたのが、御 形神社の創主である。 神社の沿革 御形神社は創立後、昭和四十六年で千二百年を迎えたが、その間、ご神徳はますます隆盛で、平安朝 では延喜式の制小社に列せられ、いわゆる式内社であり、文徳・醍醐・後醍醐天皇の御代には震災除 け、国家安穏、五穀成就、祈晴祈雨のためしばしば勅使の参向があった。 また、天正十三年羽柴秀吉が竹田城攻略と情、武運長久を祈願し、元禄十四年には大石良雄がひそか に心願成就の記念に参拝する等の、他藩主諸侯の崇敬も厚かった。 明治六年郷社となり、更に同十九年には県社に列せられた。 氏子近郷ひろく名称を高見社と称しているが、これは御祭神のなかの高皇産霊神ー高見大明神ーが主 祭神であった頃の社号が今尚一部に残っているのである」 住 所:兵庫県宍粟市一宮町森添280 電話番号: ひとこと:つまり、本来の主祭神は高産霊神であると。 いったいなぜ、高産霊神が葦原醜男神になったのでしょうね? また、国造をしたのが、葦原醜男神と天日槍神としているのも面白い。 記紀神話において、国造をしたのは、葦原醜男神の別名とされる大国主と、少彦名であるとなってい ます。 そして播磨国風土記 揖保の里にはこうある。 「粒丘(いひぼをか)と呼ぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の河口に着いて、宿所 を葦原志挙乎(あしはらしこを)命にお乞いになって申されるには、『汝はこの国の主たる方である。 私の泊まるところを与えて欲しい』と。 そこで志挙は海上にいることを許した。その時客神(まれびとがみ)は剣を持って海水を掻き回して これに宿った。すなわち主の神は客の神のこのたけだけしく盛んな行為に恐れかしこんで、客神より も先に国を占め様と思い、巡り上がって粒丘まで来て、急いで食事をした。すると口から粒(飯粒) が落ちた。だから粒の丘とよぶ。」 つまり、天日槍は葦原醜男神に在所を乞い、海を与えられると剣に宿ったと。 剣に宿ったというのは、戦の準備をしたと受け取れます。 そして葦原醜男神は応戦の準備をした、と。 それがなぜ、「共に国土経営」となるのだろう。 さらに、本来の主祭神は高産霊神であるとなると、本当によくわからない(笑) 何か社伝が残っているのか、気になります。