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那賣佐神社

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岩坪

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神西湖




  祭  神:葦原醜男命 須勢理姫命
  説  明:ご由緒記を転記します。
      「大国主命の又の名を葦原醜男命と申し上げ其の后神は須佐之男命の御子でこ
       の里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫命であります。
       天平五年(西暦733年)に編纂された出雲国風土記によれば御祭神御夫婦
       が仲睦まじく岩坪の宮殿でお暮らしになっていた或る日、社前の渓流が岩苔
       の上をな賣らかに流れているのをご覧になって『滑し盤石なるかも』と仰せ
       られた『なめしいわ』が約って『なめさ』となり、この地方を滑狭郷と賞す
       るようになった記録があります。
       又これより約二百年後の、延喜式神名帳に当社は神祇官に登録してある神門
       郡二十七座の内にあり、これを式内社といいます。
       享保年間の雲陽誌には高倉明神とあり高倉山に鎮座せられているところから、
       通称『高倉さん』とも称し、明治五年には社格郷社に列せらえるなど洵に由
       緒深い神社であります」
  住  所:島根県出雲市東神西町字牛谷七二〇番地
  電話番号:
  ひとこと:岩坪の前にあった案内板も転載しておきますね。

      『出雲国風土記』(七三三年)には、ここに須佐能嗚の御子、和加須世理比売
       命が住んでおられ、そこへ大国主命が通ってこられた時、この谷川の水が岩
       面を滑らかに流れる様子を見て、『滑し磐石なるかも』と仰せられたので、
       この地方(神西・江南)を滑狭郷というようになった、と述べている。即ち、
       郷名の発祥地は、此処、岩坪の地である。
       また『雲陽誌』(一七一七年)には、二〜三尺四方の岩穴が五つあって岩坪
       といい、近くに二神を祀る岩坪明神(那賣佐神社のこと)があると記述され
       ている。
       更に『出雲国式社考』には、この岩坪は、ふだんは砂を満たしているが、干
       魃の際、これを掘り出し雨乞いをすれば忽ち雨が降るという伝説があること
       も記載されている。
       一般におう穴とは、急流の川床の岩面にできる鍋状の穴をいう。円いつぶて
       が穴の中に入って流水によりこれが回転し、永い間に岩面に大きなくぼみを
       つくったと考えられる。
       この岩坪は、古い文献にもみられる貴重な天然記念物であり史跡である。

       須勢理姫がこんな川のそばに住んでおられたというのは、かなり意外ではあ
       りませんか?

       ただ、神西湖もまた、須勢理姫生誕の地という伝承があるみたい。
       やはり水場なのがやっぱり意外ですね。
       
       2024年1月26日に再訪しました。
       出雲国風土記にある文章を引用すると、
      「須佐能袁命の御子の和加須世理比売がおられた。その時、天の下をお作りな
       された大神の命が求婚してお通いなされたが、その社の前に磐石があり、そ
       の表面が大変滑らかであった。そこでみことのりして、「滑磐であることよ」
       と仰せられた。だから南佐という。」
       です。
       案内板通りですね。
       
       神社まではタクシーを使いましたが、運ちゃんは、日本書紀のオオクニヌシ
       は、ヤマト王権の創作だと考えているとおっしゃってました。
       ただしスサノオは土着の神で、須佐神社や佐太神社がスサノオに所縁深いと
       のこと。
       スセリヒメがスサノオの娘であるというのも、違和感がないそうです。
       
       また、那賣佐神社の拝殿前には「拝礼作法は一礼・二拍手・二礼です」と書
       かれた板が掲示されており、「出雲方式」を否定する意識を感じました。
       
      「地元の方にとって、出雲大社は観光地であり、史跡ではないというイメージ
       ですか?」
       と尋ねたら、
      「出雲大社はねぇ」
       とのことでした。
       
      「風土記に掲載されてる古い神社は、もっといっぱいあるのにね」
       と。
       
       この運転手さんだけの感覚かもしれませんが、まぁ、そうなんだろうな、と(^^ゞ
 

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