祭 神:大宮賣命 素盞嗚尊 大歳命 應神天皇 武甕槌命 大山主命 経津主命 天児屋根命 姫大神 鷲尾十郎 説 明:案内板を転記します。 「創建は古く、約千七十年前の延喜式神名帳載の神社で、ご祭神は大売貴、す なわち天照大神・太陽の女神です。 『神社調書』に『垂仁天皇(紀元前)の御代に、皇女がこの地に来られ、神を 祀られた』という意味が記されています。 この神社のもとの拝殿が、右側に移してあり、山岳修験道場『鳥の堂』の遺 構です。 また本殿東南の『鳥居の靴石』という大石は、知足廃寺の礎石の一つといわ れています。 境内の笠鷺稲荷は、おできの神さんとして大変有名です。」 境内案内板を転記します。 「延喜式内社に所載せられ、元禄元亀天生の間は領主丹波八上波多野秀治の所 願所にして崇敬篤く、慶安二年松平信康以降、五世信岑に至るまで深く当社 を崇敬した。享保十八年後西天皇の姫宮たち宝鏡寺門跡は正一位大賣神社の 神額を染筆遊ばさる。明治六年村社に列し、同四十一年城北村九ケ村の村社 六社無格社十社、計十六社を合祀して、元北の庄内の総社となる。大正十年 郷社に列し、昭和四年県社に昇格す。」 平成祭礼データを転記します。 「第十一代垂仁天皇(西暦二九年)の御代皇女天磐船にて当地に幸い給ひ、榊 を植え、注連縄を張り木を曲げて奉る。桓武天皇(西暦七八一年)の御代に 至り始めて神殿を営む。永禄三年(一五六〇年)の間は、領主、丹波八上城 主波多野秀治の祈願所として崇敬篤く、自ら大磐若経全部を書写して奉納す る。 寛文元年(一六六二年)松平、若狭守康治は、神田を寄附し社殿を再建する。 享保一八年六月(一七三三年)正一位大賣神社の神額を御染筆される。 当社は、多紀郡北の庄一一ケ村の総社であった。社を盡目山円光寺と云う。 天保一三年(一九四二年)社殿を再建、明治元年(一八六七年)社と円光寺 が分離する明治六年村社に列しし、明治四一年九ケ村の氏神となる。大正一 〇年二月郷社に列し昭和四年二月県社に列する。当社は県下一円に幅広い崇 敬者を有している。」 住 所:兵庫県篠山市寺内356 電話番号: ひとこと:垂仁天皇の皇女というのがどなたなのか、非常に興味が惹かれてしまうので すが……。 なぜなら、記紀によれば、垂仁天皇の第四皇女である倭姫が、天照大神を奉 祭して各地を巡り、最終的に伊勢の地に鎮め祀ったという記載があるからで す。 まずは大和の笠縫邑へ。このとき仮に鎮座なさった社殿は、「瑞籬宮」とい い、現在では、「檜原神社」と呼ばれています。 次に丹波の国は、「吉佐宮」へ。現在の「籠神社」ですね。 倭姫命世記によれば、最終的に伊勢にたどり着くまでの間に、倭姫は各地を 転々とした……とありますが、ここ丹波の国を訪れたという記述はないよう です。 では、垂仁天皇の皇女というのは、倭姫ではないのでしょうか? 彼女はなんのために天照大神をこの地に移し給うたのでしょう? さて、この神社は、天々さんの紹介で参拝した神社です。 案内板にもあるように、この神社境内には「おできの神様」である笠鷺稲荷 も鎮座していますが、山歩きの達人である天々さんならではの情報もブログ に掲載されていますので、ぜひご覧ください。 なんと、「笠」=「瘡」のつながりだけでなく、鎮座地背後にそびえる「笛 吹山」の「吹」が、「ふきでもの」に通じる……とか? これはなんとも興味深い。 実は、私、「瘡」については興味深く思っています。 まず、性病としての「瘡」。 梅毒による腫れものも「瘡」と呼びならわされたようです。 疱瘡もその名に「瘡」の字がはいっていますね。 疱瘡とは天然痘の別名。 現在は撲滅したとされていますが、その昔は死の病でありました。 そして、もしかしたら、ハンセン氏病も、「瘡」と呼ばれたのでは……? 天照大神。 最高神にして、美女神。 この女神を祀る神社のうちいくつかには、水の気配を感じます。 天河弁財天社の神職さんは、「弁天様(水の神ですね)と天照大神には深い 関わりがあると考えられます」とおっしゃっていました。 「ホツマツタヱ」は偽書とされていますが、最高神をアマテル神(男神)、そ の妻をセオリツ姫(女神)とするところに興味が惹かれます。 このセオリツ姫と記紀の天照大神には何か非常に近い波動を感じるからです。 天照大神がもし水の女神であるのならば、病を癒す女神でもあったのかもし れないと想像せずにはいられません。 なぜならば、川原は、病の人々の集まる場所であったから。 そして、水は病を流し去るものであるからです。 天照大神の移し身であるかのような女傑・神功皇后が、「水で顔を洗ったら、 吹き出物だらけになった」という、大阪府茨木市は「磯良神社」の伝承にあ るように、「吹き出物」と深い関わりを持つのも、そのことと無関係ではな いのではないかと思っています。 ただ、これらの疑問を、上記天々さんが、丹波史懇話会にて、識者に尋ねて くださったのですが、いずれも否定的な回答だったということでしたが(^^ゞ ただ、この地に色濃く漂う「水の気配」には、何か圧倒されてしまうのです。