祭 神:天照大御神 素戔鳴尊 軻遇槌命 倉稲魂命 句句廼智命 おきた姫 説 明:境内案内板を転載します。 「沖田神社は、備前国藩主池田綱政の時代に、新しく開拓された沖新田の産土神として建立されました。 沖新田の開墾は、岡山藩の藩政確立に大きな役割を果たした津田永忠が、綱政の命を受けて元禄5年 (1692)の正月11日に着工しました。 その工事は急ピッチで進められ、驚くべき短期間で潮留め築堤・疎水・検地を終え、約2,000町 歩の広大な新田が開かれたのです。 元禄7(1694)年4月、沖新田全体の産土神として社を建立するため、京都の吉田殿(当時の神 祇官)に見垣近江の守を派遣し神の来臨を請願、同年5月23日に沖田神社の神宣が下されました。 当初は御野群(現在の岡山市福島)住吉宮に鎮座されていましたが、元禄7年9月3日に、旧沖田神 社(岡山市沖元宮地在の古宮様)へ遷宮しました。しかし境内の土地が低いため大風・高潮・洪水の 被害を受け、拝殿にまでも水が入り込む事があったので、宝永6年(1709)現在の沖田神社の地 に移転し、現在に至っています。 明治の廃藩置県後には郷社となり、大正12年5月25日には、県社に昇格しました」 住 所:岡山県岡山市中区沖元411番地 電話番号: ひとこと:備前国藩主池田綱政の時代……ということは、江戸時代で、そう歴史の古い神社であるとは言いづら のですが、「おきた姫」が気になって参拝しました。 おきた姫について、公式サイトではこう説明しています。 「沖新田の開墾で、最後の潮止め工事に際し、人柱として一身を捧げたという。神として、沖田神社本 殿の床下に、「縁の下の力持ち」として祀られている。平成8年6月29日、沖田神社本殿裏におき た姫神社建立」 つまり、干拓工事の人柱なんですね。 角川書店『日本の伝説』では、少し詳しい話が載っていますので、転載しましょう。 「岡山藩主池田綱政が、領地拡張と年貢増収のために、父光政の代から計画されていた倉田新田三三〇 町歩を開いたのは延宝七(1679)年で、工事を担当したのは津田永忠だ。そのとき永忠は、灌漑用水 の確保と、旭川、吉井川を結ぶ運河の役割もかねて、倉安川を掘った。大事業をなしとげた永忠だっ たが、彼はさらに、沖新田の一九〇〇町歩の開拓を綱政に申し出た。 これには綱政も難色を示した。重臣たちもこぞって反対だった。費用をついやすのみで、できる工事 ではないといった。だが、永忠の熱意は綱政を動かし、工事に着手した。旭川と吉井川から吐き出さ れた土砂の堆積があったとはいえ、永忠にも予想をはるかに越える難工事だった。 工事に費やした費用は、銀に換算して九六四貫、動員した人夫は延べ一〇三万三〇〇〇人といわれて いる。 堤防は何度築いても波にさらわれて、工事は進行しない。主君を説得し、藩臣の反対を押し切って工 事に着手した永忠だ。次第と焦燥の色が濃くなっていった。莫大な費用をかけた工事が完成しなけれ ば、腹を切っても詫びきれない。 その永忠の苦衷を察して、みずから人柱になることを申し出たのが、下女の於喜多だ。 『わたくしを海神の怒りを鎮めにやってください』於喜多は花の蕾の一七歳だった。永忠が、その若い、 美貌の下女の手をとって涙を流して喜んだことはいうまでもない。 於喜多が人柱に立ってから、堤防は一度も破壊せず、工事は無事に完了した。その開拓の恩人於喜多 をまつったのが沖田神社で、そこの境内には、津田永忠の像も建てられたという」 人柱になると申し出たおきたの手をとって涙する……って、なんか欺瞞を感じちゃうわ~……。 ともあれ、おきたは永忠にひそかに恋をしていたなどというのがセオリーでしょう。 そうじゃなきゃ、みすみす死にたくないですもん。 それはともかく。人柱の神社なので、お参りしました。 岡南大橋のたもとには、津田永忠の銅像が建っていて、このあたりでは名士なんだなと思わされます。