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奥石神社

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  祭  神:天児屋根命 
  説  明:社殿前の案内板を転載します。
      「御安産守護の宮としての由緒
       景行天皇の御宇、日本武尊蝦夷征伐の御時、弟橘姫は上總の海にて海神の
       荒振るを鎮めんとして、『我胎内に子在すも尊に代りてその難を救い奉ら
       ん霊魂は飛去り江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし』と誓い給
       ひてその侭身を海中に投じ給ふ云々とあり、爾来安産の宮として祈願する
       諸人多し。
       史蹟 老蘇の森
       昭和二十四年七月文部省史蹟指定
       奥石神社本紀に依れば、昔此の地一体は、地裂け水湧いて、とても人の住
       地処ではなかったのであるが、人皇七代、孝霊天皇の御宇、住人であった
       石辺大連という翁が神助を仰ぎ、松・杉・桧等の苗木を植えた所、忽ちに
       大森林になったという。平安期以来、中仙道の歌所として、和歌紀行文又
       は謡曲等に詠ぜられたもの頗る多く文人墨客の杖を引く者多くあった。

        夜半ならば老蘇の森の郭公
         今もなかまし忍び音のころ
                     本居宣長 作
        身のよそにいつまでか見ん東路の
         老蘇の森にふれる白雪
                     加茂真淵 作」

       神社鳥居横にあった案内板を転載します。
      「老蘇の森由来
       古来老蘇の森一帯は、蒲生野と讃えられ老蘇武佐平田市辺の四ケ村からな
       る大森林があった。今尚近隣に野神さんとして祀れる大杉が老蘇の森の樹
       齢に等しいところからもすでに想像されるが、現在は奥石神社の鎮守の森
       として其の名を留むるのみで面積は六十反歩を有し、松・杉・桧等が生い
       しげってゐる。奥石神社本紀によれば、昔此の地一体は、地裂け水湧いて
       人住めず、七代孝霊天皇の御宇石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めん
       として神助を仰ぎ多くの松・杉・桧の苗を植えしところ不思議なる哉忽ち
       のうちに大森林になったと云われている。この大連翁は弱い百数十才を数
       えて尚矍鑠と壮者を凌ぐ程であったので、人呼んで『老蘇』と云ひこの森
       を老蘇の森と唱えはじめたとある。又大連はこの事を悦び社檀を築いたの
       が奥石神社の始めと伝えられている。
        古歌に
         東路の思出にせん
          郭公老蘇の杜の
           夜半のゝ聲」
  住  所:滋賀県蒲生郡安土町東老蘇1615
  電話番号:0748−46−2481
  ひとこと:この神社、「奥石神社」と書いて、「おいそじんじゃ」と読みます。

       また、「老蘇」も「おいそ」。

       なにしろ、「おいそ」の神社なのですね(笑)

      「おいそ」とはどういう意味なのかと思いますが、私の持っている、三省堂
       の「例解古語辞典」に、「おいそ」という単語は記載されていません。

       ただ、「おい」は「老い」ではなく、「生ひ」ではないかと思うのですが。

       それにしても不思議なのは、ご由緒とご祭神。

       弟橘姫が、「安産の神」とされている例を私は初めて見ましたが、
       弟橘姫が安産の神であるとして、この神社とどういうご縁があるのか、ま
       ったく説明されてないんですよね(^^ゞ

       ただいきなり、弟橘姫が、「私は老蘇の森に留まる」と。
       ・・・なんで???

       日本書紀によれば、弟橘姫は穂積氏忍山宿禰の娘だということになってい
       ます。
       この穂積氏が、当時この辺りを支配していたとか?
       ・・・そういう説明はまったくありません。気になる(^^ゞ

       しかし、彼女がこの森に留まったと説明しているのに、ご祭神となってい
       ないのは寂しいですね。

       さて、この伝承の中で、弟橘姫は、身ごもっていることを告白しています。
       その父親は当然、夫であったヤマトタケルの尊だろうと思うのですが・・・。
       もしかしたら・・・。

       そう考えるのには理由があるんです。

       悲しい病を受けた女性が、
      「私のような不幸な女性を増やしたくない」
       と考えて、女性の守り神になった・・・とする伝承は、実はたくさんあり
       ます。

       茨城県の月水石神社には、病のため山に登れなかった岩長姫が。
       貴船神社の摂社である結社では、瓊々杵尊に嫌われた岩長姫が。

       それぞれ、
      「他の女性には自分のような悲しみを味わわせたくない」
       と、守護の力を発揮なさっています。

       岐阜県にある願成寺では、婦人病にかかった中将姫が、 
      「世の女性に私のような苦しみを味合わせないでください」
       と願ったとされる、「中将姫の誓願桜」が今も有名です。

       そして、淡島神社に関わる功徳縁起は、婦人病にかかってしまったため、
       うつろ舟で流された淡島様の話しです。
       彼女もまた、不幸な女性のために、性病から女性を守る神として崇拝され
       てきました。

       そして、「椎賢比丘筆記」における大比留女。
       彼女は太陽光により妊娠してしまったため、うつろ舟で流されます。
       そして、香椎につき、八幡神を出産するのです。
       八幡神とは応神天皇のことですから、大比留女と神功皇后・・・少なくと
       も皇后のモデルとなった女性とはなんらかの関係があったでしょう。
       大比留女は、香椎聖母大菩薩として崇敬されたとありますが、神功皇后は、
       亡くなった夫の代わりに海外遠征をしたり、皇子を守るために戦ったりと
       いう伝承を持ちます。

       中でも気になるのが、大阪・磯良神社に伝わる伝承の中に、
      「境内の泉で神功皇后が顔を洗ったところ、顔中がいぼだらけになった。
       神功皇后はそれが神慮であると考え、男装をし、海外へ赴いた」
       とあるのです。

       ここにも、「不幸な女神」の片鱗を見てしまうのは私だけでしょうか。

       これらすべて、女性が、「女性という性に関わる困難」に遭遇したことに
       より、却って自らが守護神となった・・・という筋立てですね。

       弟橘姫の遭遇した災難は、ヤマトタケル尊の軽口が招いた大時化でした。
       それだけでは、女性の災難とは言えませんが、そこで彼女に、
      「妊娠しているけれども」
       と言わせたことは、「女性としての困難」に関係づけようとする意図であ
       るように思えます。
       そこに、
      「もしやその子はヤマトタケル尊の子ではなかったのでは」
       と思わせる根拠があるわけです。

       もちろん、不義の子だというのではありません。
       そう。父親は、太陽ではないか、と。 

       とすれば・・・。
       彼女の魂は、走水からこの老蘇の森までどうやって辿り着いたのでしょう
       か。

       うつろ舟では?
       考えすぎかもしれませんけれどね(笑)

       ただ、彼女の宿した子供は、「子宮」という「うつろ舟」に乗って、母と
       共に、この地に辿り着いたはず。

       その子は今どうなっているんでしょう。
       それが、ほんの少し、気になるのです。
      「椎賢比丘筆記」においては、大比留女の御子である八幡大菩薩こそが主役
       なのですから。

       もしや・・・。
       彼こそが、この神社の本来のご祭神・・・。 

       ええ。考えすぎかもしれないんですけれどね(笑)       

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