祭 神:大山祇命 説 明:和歌山県神社庁によるご由緒 「貴志川左岸にある陽向山に鎮座、通称(おくにっさん)と呼ばれ、古くは14 箇村の産土大神、『続風土記』によれば八十神等の危難から逃れ、五十猛命 のもとえ赴こうとした。 大国主命が当地を訪れたことを由緒として、祀ったに始まるという。 又『旧舊記』によると嵯峨天皇が神のお告げによって、弘仁9(818)年当神 社を御造営になり畏くも遥々行幸あそばされて、境内に白槇をお手植えにな ったと伝えられている。 淳和天皇の天長3(826)年の夏、大旱あって諸国庶民は困苦に悩める由、天 聴に達し、天皇は当神社に御勅使差遣あって御勅祭を行わせられたが、霊験 あらたかにして忽ち、豪雨沛然として至り万民を御救い下さった奇瑞あって 以来、一層崇敬も深くなり、社領300石を賜るに至った。 其の後、御鳥羽上皇も熊野行幸の御砌御鳳輦を此所に寄されたとも伝えられ ている。 又、建久の頃源頼朝も深く尊信あって社殿再建の下知あり同6(1195)年御 造営なったと『東鑑』に記されている。 神田の寄進などあった事が今も、当地方の字名に留めている。 昔その祭祀の盛だった事がよく知られているが戦国時代になって々兵燹に罹 り社殿も記録も悉く烏有に帰し詳しい由緒も沿革もたずぬる由なく、神社の 規模も亦漸く小さくなって今日に及んでいる。 鳥羽上皇のお歌「ふたまたや 又二股の川中に しるしの鳥帽子われは立て おく」 (社叢) 神社の境内は全く俗塵を離れた陽向山という小山にあって芝生あり丘あり谷 あり古杉・檜等生い茂り蒼苔滑かに地に蒸して神さびた中に春は櫻の花匂ひ 秋は紅葉の錦織る雅趣豊かな神域となっている。 特に其の脚下を繞くる貴志川は湛えて国主渕となり幾多の伝説と神秘を蔵し ている。」 住 所:和歌山県紀の川市貴志川町国主1番地 電話番号: ひとこと:この神社に参拝したのは、神社のご由緒ではなく、まさしく国主渕の伝説に 惹かれたからです。 角川書店『日本の伝説』によれば、 「昔、ここの大蛇が年ごとに村の娘を人身御供に要求するので、村人はほとほ と困り果てていた。そこで毎年四月三日、娘の代わりに、大飯をこの淵に沈 めるようになった。これが大国主神社の奇祭、大盛飯祭として広く知られて いたが、昭和九年(1934)を最後に跡絶えている。ところで、この淵には次 のような怪事が伝わっている。 文禄元年(1592)五月、この貴志の谷一帯は大旱魃に見舞われ、田畑は白く 乾き、池も川も干上がってしまったが、国主淵だけは水も涸れないので、村 人はこれを汲み出し、やっと喉を潤していた。ところが、渕の西岸、竜宮に 通じているという洞穴に大木がはさまっていることがわかった。『このまま では縁も涸れてしまう』と村人らは心を痛めた。土地の豪士橋口隼人の家臣、 桜井刑部という老人が、そのありさまを見かねて、橋口家に伝わる名刀『村 雲』を携えて淵に飛び込み、大木に切りつけた。すると大木と見えたのは実 は大蛇で、それが身を動かしたからたまらない。洞穴から、どっと濁水が渦 巻いてほとばしり、一天にわかにかき曇ったかと思うと、雷鳴にまじり大粒 の雨が降り出した。刑部が大蛇と闘っていると、水中に怪物のような生き面 がいくつか現れ、動き回った。刑部はそれらのうち三つの面を捕らえ、這い 上がったが、名刀は大蛇に奪われたという。三面のうちに面は橋口隼人の末 孫橋口幸吉氏宅に、他の一面は紀州藩士の末孫十河弘氏宅に脾臓されている。 橋口宅の面は、日照りで困ったとき、橋口家の子孫がこれをかぶって能を舞 えば、たちどころに雨が降る、と信じられている」 とあるんです。 生き面ってなんだと思います? 干し首みたいな生々しいものも想像できるんですが、それが淵に浮かんでい る図がどうもしっくりこない。 水の底から表情のある面が浮かび上がると言えば……。 戦か何かでたくさんの人が亡くなり、その中に生きていた人がいて……とい うようなシーンでしょうか。 そして実は、「橋口」という名前にも気になっています。 山伏をしていた友人が、この苗字だったのですが、 「僕の御先祖に、橋のたもとに埋められて人柱になった人がいたそうです」 と、まるで暗さのない明るい笑顔で言われたことがあるんですよ。 この淵の大蛇は人身御供をとったという点とつながるような気もします。 実際にこの目でみた国主淵はとても深い緑色を湛えた、なんとも美しい淵で したが……。 ここで昔、何があったのでしょうね?