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大依羅神社

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依網池址

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庭井址




  祭  神:建豊波豆羅和気王 底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命 大巳貴命 月讀命 垂仁天皇 五十猛命
  説  明:境内案内板を引用します。
      「本社は国史上顕著なる式内の古社にして神功皇后征韓とは重要なる交渉を有す。是を以て歴朝
       の御崇敬浅からぬ大社にして則る人皇第四十八代稱徳天皇神護元年攝津備前十八戸を大依羅神
       社に充て奉る。第五十四代仁明天皇承和十四年七月大依羅神社を収蔵して官社に預からしめ給
       ふ。第五十七代陽成天皇元慶三年六月十四日神財を奉らしめ給ふ。四時祭七十七座相嘗祭及臨
       時祭二百八十五座の名神祭同八十五座祈雨祭特に八十島祭にも預からしめし事史に載せられた
       り。古事記、日本書紀、三代実録、延喜式等の国史は元より、其他の古書に載せられざるはな
       く、往時神域の規模の廣大なりしことは今に至るも二ノ宮、四ノ宮、酒造田、宮添等の小字名
       の存するを見ても明らかにして昭和六年十月一日府社に列格。この年創祀依頼一千七百六十有
       餘年を経る古社なり。
       大依羅神社」
  住  所:大阪府大阪市住吉区庭井2‐18‐16 
  電話番号:
  ひとこと:このあたりは古代の豪族、依羅吾彦ゆかりの地名がたくさんついています。
       まずはこの神社、大依羅。
       またすぐそばにあびこ観音がありますが、「あびこ」は吾彦から来てるとか。
       
       また、境内地に隣接して最古級の溜め池である依網池があったり、清らかな「庭井」が湧き出
       ていたりと、水の豊富な地だったようです。
       依網池は崇神天皇条に登場しますが、もしかしたら本当はもっと古いかもしれません。
       
       依羅吾彦の名は、神功皇后条に登場します。その日の記事を引用しましょう。
      「秋九月十日、諸国に令して船舶を集め兵を練られた。ときに軍率が集まりにくかった。皇后が
       いわれるのに、『これは神のお心なのだろう』と。そして大三輪の神社をたて、刀・矛を奉ら
       れた。すると軍兵が自然に集まった。吾瓮海人烏摩呂を使って、西の海に出て、国があるかと
       見させられた。還っていうのに、『国は見えません』と。また磯鹿(志賀島)の海人‐草を遣
       わして見させられた。何日か経って還ってきて、『西北方に山があり、雲が横たわっています。
       きっと国があるのでしょう』といった。そこで吉日を占い、出発されるまで日があった。皇后
       はみずから斧鉞をとって、三軍に令していわれるのに、『士気を励ます鉦鼓の音が乱れ、軍の
       旗が乱れるときには、軍卒が整わず、財を貪り、物を欲しいと思ったり、私事に未練があると、
       きっと敵に捕らえられるだろう。敵が少なくとも侮ってはならぬ。敵が多くてもくじけてはな
       らぬ。暴力で婦女を犯すのを許してはならぬ。自ら降参する者を殺してはならぬ。戦いに勝て
       ば必ず賞がある。逃げ走る者は処罰される』と仰せられた。神の教えがあっていわれるのに、
      『和魂は王の身の命を守り、荒魂は先鋒として軍船を導くだろう』と。神の教えを頂いて皇后は
       拝礼された。依羅吾彦男垂見を、祭りの神主とした。時がたまたま皇后の臨月になっていた。
       皇后は石をとって腰にはさみ、お祈りしていわれるのに、『事が終わって還る日に、ここでま
       た産まれてほしい』と。その石は今、筑前怡土郡の道のほとりにある。こうして荒魂を招きよ
       せて軍の先鋒とし、和魂を請じて船のお守りとされた」
       
       依羅吾彦と聞くと、「依羅」が姓で「吾彦」が名前のようですが、「依羅吾彦」で一つの姓。
       欽明天皇の時代になってもこの地を本拠地としていたようで、あびこ観音の由緒によれば、欽
       明天皇七年の創建前、膳臣巴提便が百済の聖明王から託された仏の胎内仏が、難波依羅郷の我
       孫子浦の丘の上に安置されたのが始まりとあります。
       依羅吾彦氏の人々も、この仏を信仰していたとか。
       
       御祭神の建豊波豆羅和気王は依羅吾彦氏の祖神で、開化天皇の第四皇子です。
       開化天皇はいわゆる欠史八代の天皇でほぼ事績がないのですが、丹波竹野姫を妃にしています。
       垂仁天皇が入内させた後に返した姫と同じ名なのが気になる。
       同じ名の姫が近い世代で存在しているということは、個人の名というよりなんらかの役職とい
       うか、継名なのではないかと思います。
       とにかく聡明で優しい性格を強調される垂仁天皇が、醜いからと入内した姫を返すのは不自然
       ですし、本当はその役職ゆえ、故郷に戻らねばならなかったんじゃなかろうか。
       
       依羅吾彦氏は歴史の表にはあまり出てきませんが、いろいろ気になる氏族なのです。

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