祭 神:若山咋ノ神 若年ノ神 若沙那賣ノ神 彌豆麻岐ノ神 夏高津日ノ神 秋比賣ノ神 久久年ノ神 久久紀若室葛根ノ神 説 明:ご由緒記を転記します。 「狭岡神社由緒 本狭岡神社は霊亀2年(西暦715年)藤原不比等(淡海公)が、国家鎮護、 藤原氏繁栄のため勅許により己のが邸宅佐保殿の丘上に天神八座を祭祀し、 崇拝しました。これが佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神となって、今の 狭岡神社になったのであります。 次いで藤原淡海公は天平神護景雲年間に河内の国枚岡より、藤原氏の祖神で ある春日大明神を大和の国奈良の御蓋山へ移され祭祀せられました。これが 今の春日神社であります。それ以来国政の大事や、氏神春日詣りには、藤原 氏一門(公家、女官たち)が、この佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠し て『日待ちの神事』奉行精進潔斎をして、それより日の出を待って国政に掌 り、春日社詣をしたと古事に出ています。 現在の狭岡神社は佐保の里一円の氏神様で、昔から、産業の天神、智恵の天 神、災難よけの天神さんであると崇拝され、その霊験あらたかなことは氏子 中ではよく知られているところであります」 「狭穂姫の伝説 狭穂姫、佐保褒め、佐保川、佐保山と、佐保山のあちこちに『サホヒメ』の 伝説が、山や谷間の霧のように二千年の歴史を秘めて漂うている。 当社境内にある『洗濯池』『姿見池』『鏡池』は、古事記や日本書紀に出て いる狭穂姫(沙本毘売命、佐波遅比売、佐保姫)の伝説池であります。
狭穂姫の葉はは沙本之大闇見戸売(サホノオオクラミトメ)、父は日子坐王 (ヒコイマスノキミ)。狭穂姫は、母の所領が狭穂の丘陵にあったので、幼少 から成人するまで母と住んでいた。 若い垂仁天皇と、この泉のほとりで恋のロマンスが生まれて垂仁天皇の皇后 になられました。 狭穂姫は反逆の兄上に殉じられた故か、陵碑はどこにも現存しない。当神社 の『洗濯池』『鏡池』の伝説は、貴重な存在で、碑は現在常陸神社にあり、 何とか話し合って、何れかに永久保存にもっていくことが大事であると思う」 「佐保、狭岡の地名の起因 万葉集に『佐保』『佐保山』『佐保川』『佐保の内』『佐保道』『佐保風』 等の語が出ており、『佐保』は法蓮から法華寺に至る一条通り一帯を指して いる。この地名の起因は、『開化天皇の皇女、狭穂比売(第十一代垂仁天皇 の皇后)の住んでいた土地なり』との伝説もある。 その狭穂比売は、古事記に佐波遅比売・沙本毘売、日本書紀では狭穂姫と表 されている。これが万葉仮名になおされた時は狭穂姫となし、現在の『佐保』 の地名になったといわれている。 又一説では、『狭岡』とは『佐保の丘』という語から『ホ』が欠落し、『サ オカ』となったとも云われている。」 住 所:奈良県奈良市法蓮佐保田町 電話番号: ひとこと:狭穂姫と垂仁天皇の恋物語は、記紀神話の中でも白眉と言えましょう。 詳しい物語はこちらかこちらをご覧いただければ。 奈良市の中心部に「佐保」という地名があることは、もちろん知ってました。 ただ、垂仁天皇の皇后である狭穂姫とは同音名の別人だと思ってたんですよ。 というのも、平安時代の和歌に詠まれる佐保姫は「春の女神」「春霞の女神」 という位置づけで、兄と夫の間で揺らぎ、翻弄された狭穂姫とはまったく違 う性質に思われたので……。 ちなみにWIKIを見ると、 「五行説では春は東の方角にあたり、平城京の東に佐保山(現在の奈良県法華 寺町法華町)があるためにそこに宿る神霊佐保姫を春の女神と呼ぶようにな った。白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性と考えられ。この名は春 の季語であり和菓子の名前にも用いられている。竜田山の神霊で秋の女神竜 田姫と対を成す女神。 竜田姫が裁縫や染めものを得意とする神であるため、対となる佐保姫も染め ものや機織を司る女神と位置づけられ古くから信仰を集めている。古来その 絶景で名高い竜田山の紅葉は竜田姫が染め、佐保山を取り巻く薄衣のような 春霞は佐保姫が織り出すものと和歌に歌われる。」 と説明されており、やはり、狭穂姫とは別人という解釈です。 そして、『詞花集』にある平兼盛の、 「佐保姫の糸染め掛くる青柳を吹きな乱りそ春の山風」 『後鳥羽院御集』は、後鳥羽院の 「佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ花の錦をたちやかさねむ 」 が引用されてますね。 ね?狭穂姫とはキャラクターがあまりにも違います。 この神社に参拝したきっかけは、コンビニ(笑) コンビニの本棚に「よくわかる古事記」的なムック本があり、パラパラとめく っていると、垂仁天皇の由緒地としてこの神社が紹介されてたんです。 著者は一人。歴史学者ではありませんでしたから、もしかしたら勘違いの可能 性もあるかなと思ってます。 ただ、鏡池の伝承は興味深い。 美女と「鏡池」の関係で思い出すのは、八重垣神社じゃありません? ここにも「鏡池」なる名の池があり、櫛稲田姫が八俣の大蛇から逃れて隠れた という伝承が残ります。 美女が自らの美しい姿を池に映す図は、絵になります、確かに。 ただ、それだけじゃないと思うんですよね〜……。 清らかな水と、美女。 なんらかの神事が行われたと考える方が、自然です。 そして古事記によれば、狭穂姫はどうも、巫女的な性格があったように思われ るんです。 それは、狭穂姫が炎の中で死のうとするくだり、引き留めようとする垂仁天皇 は、こんなことを彼女に聞いています。 「あなたの結び堅めた衣の紐はだれが解くべきであるか」 と。 有名な、折口信夫の『水の女』には、こんな一節があります。 「みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。瑞という称 え言ではなかった。このひもは『あわ緒』など言うに近い結び方をしたもので はないか。 天の羽衣や、みづのをひもは、湯・河に入るためにつけ易えるものではなかっ た。湯水の中でも、纏うたままはいる風が固定して、湯に入る時につけ易える ことになった。近代民間の湯具も、これである。そこに水の女が現れて、おの れのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。すなわ ちこれと同時に神としての自在な資格を得ることになる。後には、健康のため の呪術となった。が、もっとも古くは、神の資格を得るための禁欲生活の間に、 外からも侵されぬよう、自らも犯さぬために生命の元と考えた部分を結んでお いたのである。この物忌みの後、水に入り、変若返って、神となりきるのであ る。だから、天の羽衣は、神其物の生活の間には、不要なので、これをとり匿 されて地上の人となったというのは、物忌み衣の後の考え方から見たのである。 さて神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。みづのをひもを解 いた女は、神秘に触れたのだから、神の嫁となる。おそらく湯棚・湯桁は、こ の神事のために、設けはじめたのだろう。」 つまり、狭穂姫は、現人神である垂仁天皇の「みずのをひも」を解いた「水の 女」ではなかったのか、と。 さて、この神社のご祭神は、古事記にある「大年神の系譜」に登場する神々で す。 天知迦流美豆比売との間に生まれた羽山戸神と、大宜都比売の間に生まれたと されます。 季節の名が二つも入っているのが、春の女神である佐保姫との関連を思うと、 興味深いですね。 この神社に参拝したのは、一月三日。 境内では氏子さんと思われる方たちが参集し、いろいろと話をされていました。 私もチャッカリお神酒をいただきましたよ!! みなさんとても親切でした。 氏子さんたちの崇敬が篤い神社だというのは、間違いありませんね(#^.^#)