祭 神:狭依毘売命 説 明:境内案内板を転載します。 「ご祭神 狭依毘売命、又の御名市杵嶋姫命。相殿 素盞鳴大神・大国主大神・春 日大神・八幡大神を合わせ祀。 創立は太古にて、続日本後記に『第五十四代仁明天皇嘉祥二年(紀元1507年 西紀847年)七月官社に預かる』と記されている。更に延喜式内神明帳に『醍 醐天皇の御世縁起式内社に預かる』と記されている。播磨風土記に讃容の郡と言 う所以は大神妹背二柱、各競いて国を占めたまう時、妹、玉津日女命臥せる生鹿 を捕えて其の腹を割きて、其の血を種とまく。忽ち一夜の間に苗生いぬ。即ち取 り殖えしめきここに大神、汝妹は五月夜殖るかもと勅りたまい、他処に去りまし き。故に、五月夜郷と号ふ。 神の賛用都比売命、今讃容の町田に有り。と記されている。古来当地方の開祖佐 用姫大みょうじんといい、昔は御神領地が七町七反もあり、宮祭されていたもの であるが、豊臣の兵火にてことごとく焼失し、衰微したが、農業・商業・武術・ 安産・縁結・鎮火の神として広く信仰されて来た。 国司領主が代々崇敬した神社で、赤松円心、及び兄の孫・別所五郎左衛門敦範 (利神城主)・池田三左衣文輝政(白鷲城主)・池田出羽(利神城主)等が崇社と した。その他、山中鹿之助が当地に来た時、尼子家再興を祈念して各燈篭を奉建 した事、宮本武蔵が諸国修行に出かける時、当社に本刀二振りを捧げ十七日間参 籠してその武運を祈願して出立した事等が伝書にみとめられる。 万治三年(紀元2318年・西紀1658年)松平石見守が拝殿を再築、元禄十 四年九月(紀元2346年・西紀1686年)領主松平久之助が金子百両・米十 五石を献じ、現在の本殿を再建した。大正十二年県社に昇格し、大正十五年現在 の拝殿幣殿を氏子並びに一般崇敬者の寄進金約二万五千円と氏子の出人夫約五百 人をもつて改築し、更に神域も拡張された。戦後は殊に霊験あらたかとなり、病 難・交通安全・安産・厄除け等、ご加護を蒙る者数多。数傾斜は遠く大阪・広島 方面に及んでいる。」 住 所:兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261 電話番号: ひとこと:この神社に参拝したのは、史学研究会で、 「佐用姫伝説」なるものを教えていただいたことから、ずっと気になっていたから なんです。 では、「佐用姫伝説」とはなんでしょうか。 研究発表者の方から教わったのは、大体こんな話です。 「松浦長者の娘、佐用姫は、父の供養にかかる費用がなく、春日明神に参籠して、 なんとかその費用を与えて欲しいと祈っていました。 しかし、その託宣は、悲しいものでした。 『大蛇への人身御供の身代わりを探している長者がいる。その身を売って金を工面 せよ』 信仰に篤い佐用姫は、この言葉に少し驚きましたが、動揺することはありません でした。 それは良いことを聞いた。 ・・・と、早速姫は人身御供の身代わりを申し出、父の供養を済ませた後、早速 に、大蛇の元へ赴いたのでした。 夜が更け、気味の悪い音とともに、大蛇が這い寄ってきました。 佐用姫は大蛇を見ても恐れず、法華経を静かに読んでおりました。 実は、この大蛇。 生まれは人でありました。 なんとこの蛇の前身は、橋の人柱になった伊勢の娘。 人柱とされた恨みから大蛇となり、自分もまた犠牲を要求したというのです。 しかし、この度、佐用姫の読経により元の娘の姿に戻ることが出来たのでした。 大蛇であった娘は、感謝のしるしとして、佐用姫に宝珠を授けます。 この宝珠の功徳により、佐用姫は不老不死となり、後に、竹生島へ赴き、弁天様 として祀られたのでした」 奈良の壺坂や、竹生島に伝わる物語らしいのですが、残念ながら原典には当たっ ていないので、細部に間違いがあるかもしれません。 それにしても不思議な話しです。 法華経の功徳を説いた話とも読めるのですが、生贄となった少女が蛇と化し、自 らも生贄を要求するという・・・。 悲劇の連鎖は、今も昔も変わらないのですね。 また、旦那いわく、九州は松浦にも「佐用姫伝説」があると。 調べてみたところ、松浦佐用姫とは、万葉集にも歌われた悲劇の少女でした。 ざっと見ただけで、巻第五に五首も。 松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ 遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ 万代に語り継げしこの岳に領巾振りけらし松浦佐用姫 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫 恋人が船で去っていくのを、袖を振って見つめる少女が、そのうち石と化してし まった・・・。 悲しい伝説ではありますが、反面、「どこにでもある伝説」でもあるといえます ね。 全く同曲の話が、北海道は神威岬にも残っています。 ここでは、少女の名はチャレンカ。男の名は・・・源義経となっています。 さて、肥前松浦で袖を振るといえば、肥前国風土記にこんな話しがあります。 「褶振の峰 郡役所の東にある、とぶひのある場所の名を褶振の峰という。 大伴狭手彦連が船出して任那に渡ったとき、弟日姫子はここに登って褶をもって 振りながら別れを惜しんだ。そのことによって名付けて褶振の峰という。 さて弟日姫子が狭手彦連と別れて五日たった後、ひとりの人があって、夜ごとに 来て女とともに寝、暁になると早く帰った。顔かたちが狭手彦に似ていた。女は それを不思議に思ってじっとしていることができず、ひそかにつむいだ麻の糸を もってその人の衣服の裾につなぎ、麻のまにまに尋ねて行くと、この峰の沼のほ とりに来て寝ている蛇があった。身は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の岸に臥し ていた。たちまちに人と化為って歌っていった。 篠原の弟姫の子ぞ さ一夜も率寝てむ時や 家にくださむ その時、弟日姫子の侍女が走って親族の人たちに告げたので、親族の人はたくさ んの人達を連れて登って見たが、蛇と弟日姫子とはともに失せてしまっていなか った。そこでその沼の底を見るとただ人の屍だけがあった。みんなこれは弟日姫 子の遺骸だといって、やがてこの峰の南のところに墓を造って収めて置いた。そ の墓は現在もある」 この弟日姫子は、大蛇の生贄となってしまったということでしょう。 さてもさても。 いろんな伝承が混ざっているようです。 ただ、佐用姫にかかる伝承をすべてひっくるめたような伝説が、壺坂にほど近い 野口に存在します。 野口神社に残る伝説をここに引用しましょう。 「神社社記によると、彦八井命の後胤、茨田の長者が河内の国よりこの地に住んで いた。そこに一人の娘がいた。その頃、茅原郷から葛城山に修行に日参する役の 行者小角(おづぬ)という人が居たが、修行の往復に村の筋街道を通るのが常で あった。いつしかその娘の恋の的になったが、行者は修行一途で応じることが無 く、娘は女の一念から悪息をはきながら行者を呑み込もうと村の森の中にある 「穴」にかくれた。五月五日の田植時で村人が野良へ弁当をもって通りかかると、 大蛇が火を吹いていた。驚いて持っていた味噌汁を大蛇にぶっかけて逃げ帰った。 村人がきて見ると、大蛇が井戸の中に入ったので巨石で口をふさいだ。その後娘 の供養にと汁掛祭と蛇綱ひきが行われている。」 ・恋人を追いかける女 ・人を殺す蛇 ・蛇の供養 まぁ、共通点はそれだけだといえばそれだけなのですが・・・。 どうも無視できない気がします。 また、肥前国風土記にあるように、夜尋ねてくる男の衣服に糸をつけておき、昼 にその後を追うと、男の正体が蛇であったとするのは、古事記における活玉依姫 と、三輪大神の話しと全く同じですしね。 三輪は、野口神社からも、壺坂からもそう遠くはありません。 そして、この佐用都比売神社。 ご祭神は狭依姫。 竹生島神社の御祭神と同じです。 これらのことがどう関連してくるのか・・・。 私にはわかりません。 しかし、この女神には、女性の本質にかかる何かが秘められているように思えて 来はしませんでしょうか。 佐用都比売神社のお社には、原始的女性の力とシャーマニズムが詰まっているよ うな気がしてならないのです。