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祭 神:少彦名命 説 明:境内案内板を転記します。 「延喜式の南海道淡路国津名郡九座中の一座(小社)に列し、祈年の国幣に預 った古社である。志筑天神・手間天神・申の宮とも別称された。創祀の年代 は詳らかでないが、平安朝には平家領新熊野社荘園、鎌倉期には静御前ゆか りの一條中納言家の荘園であった。志筑郷の首座の神社として古来から崇敬 をあつめてきた。一遍上人絵伝には、鎌倉中期の名僧一遍上人(時宗開祖) が、歿前の正應二年(1289)に、当社に参詣したことを記している。祭 神『少彦名命』は、大国主命に従って、国土経営を果たされた神で、対岸の 淡島明神(加太神社)にも同神を祀り、医薬・技芸守護の神と仰がれる。」 住 所:兵庫県津名郡津名町志筑字天神907番地 電話番号: ひとこと:この神社にほど近く、静御前の墓碑があります。 関わりの深い人物ということですのでその由縁を引用しましょう。 「静御前墓碑由来 淡路国志筑の郷に静女のおくつき(奥津城=墓のこと)あり、義経うし(大 人=尊称)のも並たてり。このうしのとならべしは其中のよにむつまじかり しを思いやりての業なるべし。 鳥羽院御宇、此里は権中納言能保卿しらし(治め)給ひしよし東鑑にもより 所ありて、此里は鎌倉のまうち君(公卿のこと)にゆかりあり、其ゆかりよ り静はのりの道(仏道)にいりて名を再性とかへ、ここにきたりて世を終た りとなんいひ伝ふなり。御光明院御宇、六郎太夫といひし里人の娘に彼霊か ゝりて、我はしつかといひしものぞ、とてそのかみふりの舞をかなで、はた あざやかになにはつをだにしらぬ身の筆とりて『訪ふ人もなくて静のつかの べに何怜をそふる松風の音』といよみて書たりしとぞ後世にいたりてげにと ふひとも稀になりゆかむは本意なき限りなりとて見きくまゝをしるすものは 浪速にもの学びする。(後略)」 「静御前の墓 静御前は、その容姿麗しく、世にかくれなき美人なり。舞も当代屈指の名手 にて、治承三年以来、源義経公の寵愛をうく。義経公、兄頼朝公と仲違いあ り、鎌倉・鶴岡八幡宮に召し出され、夫との哀別離苦の嘆きを、 しづやしづ しづのおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな と舞い、社檀一同を感涙せしめた。没後、一条中納言家の荘園たりしこの地 に葬す。 今日、静御前の墓に詣で祈れば、縁遠き人、佳き良人を得、懐妊の人、美貌 玉の如き児を安産。その上婦女、諸々の技芸に熟達す。 その効や不思議なりとされている。」 静御前といえば、美麗なる白拍子であり、源義経最愛の女性である・・・と 皆さんご存知ではないかと思います。 が・・・、ありがちですが、この女性についての伝承は、どうやら主に、 「義経記」によっているようです。 しかも、この「義経記」は、室町時代初期の成立ですから(笑) 静御前が本当に実在したかどうかはわかりません。 また、この地を荘園とした一条家能保との関係も血縁関係ではないようです。 義経没後、彼女が源頼朝や北条政子らの前で、 「しずやしず しずのおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな」 と舞を踊り、頼朝を激怒させ、北条政子のとりなしにより許されたという逸 話もかなり有名かと思います。 その後、静は義経の子を出産し、その子を殺されたため、自害を謀ったとさ れているんですね。 その命を助けたのが、かの舞を見て感動した一条能保であったと。 その後の伝承もばらばらです。 したがって、静御前の墓と伝わる墓碑は各地に残るようです。 ここの伝承では、静御前は一条能保に助けられた後、仏道に入り、再性と名 を変えてこの地へやってきて、亡くなったとされているようです。 ということは、再性という名の尼は存在したのかもしれません。 そして、その尼は技芸の達人だったのでしょう。 この地を志筑と言うことから、「しづき」→「しずか」と転訛したのかもし れません。 さて、私は、静御前が実在したかどうかよりも、彼女が「白拍子」であった ということに興味を惹かれます。 白拍子とは舞姫のこと。 しかし、ただ舞を舞うだけではないのです。 三省堂の大辞林で、白拍子をひいてみましょう。 「2.平安末期に起こった歌舞。また、それを業とする遊女。最初、直垂・立 烏帽子に白鞘巻の刀を差した男装で今様などを歌いつつ舞ったが、のち殿上 人・童児・遊僧なども舞うようになった」 つまり、その生業は遊女なのです。 しかし、彼女らは、貴族との繋がりを深く持っていたため、教養のある女性 も多くいたと言います。 古来、売春と信仰とは深いつながりを持ちました。 すべての女性は、神にその身を任せる存在であった・・・と、池田弥三郎氏 はおっしゃっています。 つまり、「神」とする殿上人に身を捧げる遊女・・・つまり。白拍子とは、 巫女そのもののことであるとも考えられるわけですね。 静御前が巫女ならば、源義経は神なわけです。 巫女が神を助けて逃がす。 義経記に描かれる、静御前・源義経別離シーンはつまりそういうことにはな りませんでしょうか。 また、売春と技芸とは深い関わりを持ちました。 白拍子も舞を舞うわけですから、もちろん技芸の上手でなければいけません。 技芸を担う人々とはどういった人々だったのでしょうか。 技芸とは、傀儡子・申楽師など、「流れ者」の業。 流れ者と呼ばれた人々の源流は? 流れ者となった人々とは? それはわかりません。 しかし、彼ら「流れ者」が、「神」を助けた。 この点は、看過すべきでないように思います。 そして、彼女に縁の地に祀られる神が、少彦名命であるということ。 少彦名命は、ガガイモの船に乗ってやってきて、粟の穂に飛ばされて、常世 の国へ去りました。 そういう意味では、この神こそ、「流れ者」であるといえるでしょう。 「春を売る者」「流れ者」 現代であれば、マイナスイメージの強いこれらの言葉が、古代においては、 もっと広がりのある、神に近いものとしてのイメージをも持っていた可能性 について考えるとき、自分の魂の奥底に眠る自由な息吹を感じませんか(笑)? 私はこれらの言葉に、古代のイキイキと躍動する営みを感じるのです。