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志野神社

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  祭  神:天言代主命 加具土命 息長帯姫命
  説  明:境内にあった案内を転記します。
      「当神社は、天言代主命・加具土命・息長帯姫命を祭神とし、紀ノ川市北志野
       の桜池の近くに鎮座し『紀伊國続風土記』によれば、徳川南龍公の御代にこ
       の北志野の地に人工池(桜池)を創ろうとしたところ夜毎に、奇妙な光が辺
       りに発せられ又、地鳴りが起こり村人等を苦しめたとあり、この事を聞かれ
       た南龍公が村人等と相談されたところ、昔この地に天正の兵火に焼亡し慶安
       三年まで衰廃していた社殿があった事が判り、この社殿を新しく建立された
       ところこの奇妙な光と地鳴りが消えたとの言い伝えがある。
       ここであえて言い伝えとしたのは、当社に確かな記録の書物等が無い為であ
       る。
       尚、以前は東屋御前神社と言いその後現在の志野神社と称している。
       又、神功皇后の三韓征伐の行幸地としても『風土記』等に記されているが、
       この場合多くは『小竹の宮』と記されている。
       現在の本殿鎮座地は、以前よりやや北に移っているが容姿などはほとんど変
       り無く保っている。
       例祭日には、餅投げ等あり賑わっており、祭典終了後は、宮講の式も執り行
       う。
       その他当神社には宮座が有り『木村座』『稲垣座』の2座で、1月・10月
       には座の式も執り行っている。」
  住  所:和歌山県紀の川市北志野557番地
  電話番号:
  ひとこと:この神社は、所謂、「小竹ノ宮址」。
       小竹の宮は日本書紀の神功皇后条にも登場します。
      「皇后は紀伊國においでになって、太子(後の応神天皇)に日高でお会いにな
       った。群臣とはかって忍熊王を攻めようとして、更に小竹宮に移られた。こ
       のときちょうど夜のような暗さとなって何日も経った。時の人は『常夜へ行
       く』といったそうだ。皇后は紀直の先祖、豊耳に問われて、『この変事は何
       のせいだろう』と。一人の翁がいうのに、『聞くところでは、このような変
       事を阿豆那比の罪というそうです』と。『どういうわけか』と問われると答
       えて、『二の社の祝者を一緒に葬ってあるからでしょうか』という。それで
       村人に問わせると、ある人がいうのに、『小竹の祝と天野の祝は、仲の良い
       友人であった。小竹の祝が病になり死ぬと、天野の祝が激しく泣いて『私は
       彼が生きているとき、良い友達であった。どうして死後穴を同じくすること
       が避けられようか』といい、屍のそばに自ら伏して死んだ。それで合葬した
       が、思うにこれだろうか』と。墓を開いてみると本当だった。ひつぎを改め
       てそれぞれ別のところへ埋めた。すると光が輝いて、昼と夜の区別ができた」
       
      「祝」は「はふり」と読み、その音の通り、屍体を処理する役職の社人だった
       と考えられています。
       でも、今までうっかり気づきませんでしたが、「祝」は「しゅく」とも読む
       のですね……。
      「しゅく」は「夙」「宿」などとも書き、病を理由に町を追われ、河原などを
       ねぐらにした人々や、芸能の民を指したと考えられています。
       
       小竹と天野の「祝」が、はふりであると同時に、しゅくの民であったかどう
       かはわかりません。
       
       ただ、彼らは死が二人を分かつことをよしとしなかった。
       その罪により、この世から光が消えたというわけです。
       
       具体的に、何が罪にあたるのかはっきり書かれていないため、この二人は、
       記録に残る日本最古の同性愛者であるとも言われていますね。
       
       そういう目で見ようとすれば、
      「死後穴を同じくする」
       という表現も気になるかな?
       国学院大学のデータベースによれば、原文は
      「何死之無同穴乎」
       
       なんとも意味深……かな(^^ゞ
       
       さてあなたは、いったい何が「罪」なのだと思います?
 

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