祭 神:靜比女 説 明:境内案内板を転記します。 「悲劇の英雄、源義経の愛妾であった静御前を祀っているのがこの神社です。 静は磯の禅師の娘として生まれ、京に出て、白拍子になり義経に見染められる のですが、義経が追放された後は故郷の磯に帰り晩年を過ごしたということで す。 義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという江戸時代 の記録もあります。しかし、この手紙や多くの遺品は天明二年の大火で神社と ともに焼失してしまい残念ながら残っていません。 現在の社も、元のところから西へ二百メートル離れた位置に建てられ、静御前 の木像を祀っています。」 神社から100メートルほど離れた場所にある静御前生誕の地にあった案内板を 転記します。 「静は磯に生を享け、父は磯野善次といい、『磯の衆』と呼ばれた海士の一族で あった。幼名を静尾といい、七歳で父を失い母に連れられて都へ上った。母は 白拍子として有名になり、静も都で指折りの白拍子へと成長していった。 やがて義経に見初められ、愛妾となるが義経はその後、兄頼朝に追われる身と なり、はなればなれに、その後疲れ果てた心身を休めるため、生まれ故郷の磯 へと帰ってきた。 静は眺望のよい三つ塚法城が成に草庵を結び、義経の無事と、由比が浜で殺さ れた愛児の冥福を祈りつつ、花月を友として暮らしたと伝えられている。また 一説に、草庵は静の出生地の屋敷跡で、母娘共々に余生を送ったとも言われて いる。今もこの屋敷跡下の海岸を『尼さんの下』と言っている。」 住 所:京都府京丹後市網野町磯1556 電話番号: ひとこと:静御前の足跡を追いかけてきました。 興味深いと感じたのは、静御前が「海士の一族」とされているところです。 個人的に……ですが、好きなんですよ。海の民(笑) 古代の人々がどのように職業を分けたのか、今となってはわかりません。 しかし、移動手段が少なかった時代のこと。 親から子へと受け継がれることが多かったでしょう。 ならば、海の民の子として生まれた子は、海の民に育つことが多かったのでは ないでしょうか。 なのになぜ、静は白拍子になったのか? 静御前の母は、磯禅師という、踊りの名手だったとされています。 彼女の影響だというのはわかりますが、なぜ海の民の中から、踊り手が生まれ たのか? 海の民にとって、「芸能に秀でた人物」が必要だったとでもいうのでしょうか? ここではっきりさせておきたいのは、静御前は実在の人物とは限らないという ことです。 彼女の存在を伝えるのは、平家物語でも、源平盛衰記でもなく、鎌倉時代の将 軍記「吾妻鏡」のみ。 もし彼女が実在なら、もう少したくさんの書物に登場してもおかしくない気が します。 ただ、彼女のモデルはいたでしょう。 というか、白拍子が武士を助けるという筋書きを生みだす、時代的な背景はあ ったと考えても無理はないと思うんです。 影になり、表になり、悲運の武士を助けた白拍子・静御前。 その姿は、服部半蔵や猿飛佐助などという、忍者を彷彿とさせませんか? 興味深い話があります。 それは、楠木正成公と、「芸の民」のつながり。 「上嶋家文書」によれば、楠木正成の姉妹が、能楽の大家である観阿弥を生んだ とされているんです。 楠木正成は山伏の巨大ネットワークを掌握していたとも言われますよね。 山伏……。 そう。 歌舞伎「勧進帳」では、弁慶と義経らは、山伏の姿をして東へ逃げ延びました。 なぜかと言えば、「全国にお寺への勧進を集めて周る」という口実で、関を出 ることができたから。 とはいえ、友人山伏に寄れば、「どんな山伏でも関を出ることができたわけじ ゃなかったみたいですよ」とのことですけどね(^^ゞ ただ、他の人たちよりは関を出る口実を得やすかったということかもしれませ ん。 「忍者」 となるには、都合が良かった……とも言える。 芸の民もおなじような事情があります。 芸を見せるために全国行脚をするとして、関を抜けることもあったようです。 とはいえ、これまたどんな芸の民でも関を出してもらえるわけではなかったで しょうが……。 静御前の属していた海の民が、芸の民となって関を出なければいけない事情。 そんな何かがあったのでしょうか? そういえば、弁慶は和歌山の海軍、安宅族の出……でしたね。 海軍と海の民を容易にイコールでは結べませんが、船を操ることにかけては、 海の民ほど適した人たちはいなかったでしょう。 関係が深かったと考えても無理はないか、と。 ちゅま〜り。 つまりです。 弁慶と静御前には、何か、通じ合うものがとても多いような気が……しませ んか? ・海に関係が深かったこと。 ・芸でもって関を行き来することができた(可能性がある)こと。 ・生涯義経に忠誠をつくしたこと。 性別が男なら弁慶。 女ならば静御前。 ふむ、これはいったい?? ……と言いだすと途方もなく話が広がりそうなので、静御前に話しを戻しま す(^^ゞ 静御前は白拍子でした。 白拍子は男装で踊りを舞う芸能の女性ですが、その夜は観客の閨へ行き、共 に寝たのだと言われています。 つまり、遊女ととても近い。 遊女の前身と言っても良いかもしれません。 静御前を知るため、「遊女の発生」についても調べてみましたが、その手の 学術書はとても声が黄色いんですよ(^^ゞ 「遊女は男たちの身勝手な欲望が生んだなんたら」 とかね(^^ゞ でも私は……少なくとも発生においての遊女は、もっと崇高で、清らかなも のであったと信じます。 折口信夫は「水の女」で、 「(神の)「ひも」の神秘をとり扱う神女は、条件的に「神の嫁」の資格を持 たねばならなかったのである。 (中略) 一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。しかも尊 体の深い秘密に触れる役目である。みづのをひもを解き、また結ぶ神事があ ったのである。」 と書いています。 尊体の深い秘密に触れる最高の神女。 それが「神の嫁」なのです。 しかし、時代が下り、「神」の定義が広がります。 古代における「神」は、一族の首長、もしくは本当の神秘なる「神」を指し たでしょう。 しかし、時代が変ると、人々の移動が多少なりとも生まれます。 すなわち、「客人(まれびと)」が村にやってくる機会も増えたでしょう。 村からでる人が少なかった時代、旅人は異界のものを持ちこむ存在でした。 珍しいものや、変ったものを持ちこみ、時には「村にない、新しい精子」を 持ちこむ存在であったでしょう。 狭い中で生殖を繰り返すのは良くないことは、遺伝子学に詳しくない私たち でも知っています。 当時の人たちも経験的に知っていたでしょう。 ですから、旅人、客人は大切な存在、「神」ともされたでしょう。 彼らを「神」としたとき、神女の在り方も変った。 それがすなわち、「遊女」なのだろう……と。 折口信夫の弟子であった池田弥三郎氏はおっしゃっています。 そう考えれば、静御前が神々しくも気高い理由もわかろうというものです。 そして静御前が、美しい上に、舞に秀でた、さらに豪胆で、頭もよいという 驚くほど優秀な人物であったことも当然かもしれません。 なんせ「最高の神女」なのであれば。 急な坂をくだり、「尼さんの下」で海を眺めていると、白い波が寄せては砕 けていました。 静御前が生涯仕えた「神」もまた、外界からやってきたんですね。 そのことが、なんとも言えない「符合」と感じられて仕方がありません。 海の民たちは、海の向こうに「常世」があると信じました。 素晴らしい世界はいつも、「あちら側」だったのです。 だからこそ彼女は、義経を生涯愛し続けたのかも……ね(笑) そしてここ、丹後には、「異界の女性」がたくさん存在します。 その一人が、龍宮城の乙姫。 浦島太郎こと浦嶋子はこの地の粋人だったと言われます。 ということは、龍宮城は、この海に繋がっていたのでしょう。 龍宮城と常世。 考えてみれば非常に近しい間柄です。 そして、羽衣天女。 天女が舞いおりたのも丹後の地だとか。 ならば、ここは天女のふるさとにも繋がってたということ。 彼女の故郷は天ではなく、海の向こうなのかもしれません。 なんにせよ、丹後半島は、「異界」と近しい土地なのでしょう。 そしてかの静御前こそ、この地に相応しい女性だと思えてなりません。 静御前の故郷とされる土地は、京丹後・網野の他にも、奈良は大和高田など、 諸説があります。 どこが本当かはわかりません。 いや、静御前が実在したという証拠もありません。 ただ、彼女の足跡をたどるとき、哀しみと共に、何か透き通った清々しさを、 感じずにはいられないのです。