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宿院頓宮

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飯匙堀

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乳守神社




  祭  神:住吉四柱大神 大鳥井瀬大神(弟橘媛命)
  説  明:ご由緒書を転記します。
      「住吉祭と荒和大祓神事
       古来より日本では清浄を尊び国家の行事として大祓を執り行ってきた。大祓
       には毎年行われる恒例の大祓と臨時の大祓とがある。恒例の大祓は六月と十
       二月の寒暑の厳しい時節に行われ、六月の大祓を夏越(名越)の大祓と云い、
       十二月の大祓を年越の大祓と云う。この六月の大祓が夏祭として伝承されて
       きた。
       住吉大神は、記紀によれば伊弉諾命が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊
       祓をされた時に出現された神と伝えられている。また、天平三年(731)
       の奥書がある『住吉大社神代記』に、「三所の大神、(住吉大明神と称すな
       り。)祷り祓除へする縁発」とあって、御祓いの神とされる所以でもある。
       更に、同神代記には「六月御解除。開口水門媛神社。」とあり、奈良時代す
       でに、大祓が行われていたことが窺える。因みに「開口水門姫神社」は延喜
       式にみえる和泉国大鳥郡の「開口神社」に当たり、神代記には「子神」とあ
       る。
       今日では単に「おはらい」と呼ばれる住吉祭は、古くは南祭とも云い、夏の
       盛りに住吉から堺の宿院頓宮へ神幸があり、着輿祭の後、飯匙堀において古
       儀に則り茅輪をくぐり菅貫を以て「荒和大祓神事」を執り行い、人形に罪穢
       を託して祓具と共に茅渟の浦海へ流して堺の平安と発展を祈るのであるが、
       もともと摂津・河内・和泉の国中の大祓の意味が込められている。
       尚、住吉祭は昭和四十七年に大阪府民族資料(民俗無形文化財)に採択され
       た。
       
       住吉大鳥両大社の御旅所
       当地は往古から摂津一之宮、住吉の御旅所であった。「堺鑑云此地(宿院)
       は住吉明神毎年六月晦日の御祓御旅所也。」と、『住吉松葉大記』は「堺鑑」
       を引用している。寛政七年(1795)刊行の『住吉名勝図会』にも同様の
       文言があり「堺宿院之図」を載せている。その俯瞰図を見ると、石の大鳥居、
       小鳥居を経て、中央に神輿舎があり、南の方に飯匙堀と甲之社の小祠、東の
       方に名越の岡があり、丘の上に舳松社と如意社が並祀されている。広さは
      「東西八十四間、南北六十間」とあり、広大な神域であったことが分かる。
       住吉文書の「社務日誌」に、「此の都市より大鳥神社宿院に神幸す」と明治
       八年(1875)八月一日付で記されており、この頃から住吉大鳥両大社の
       御旅所となった。
       
       堺の住吉神社と大鳥井瀬神社
       堺の住吉神社の沿革は、住吉文書及び記録によると、文化十三年(1816)
       五月住吉から堺の吾妻橋通りの新地へ、港内の風浪和静ならんことを祈って、
       御分霊を勧請したのが始まりで、萬延元年(1860)、波除住吉神社と称
       して堺港護岸の北波止にお遷しされた。同所は、対岸に燈台があり、出で入
       る船を見守るに相応しいところで、現在も大正十一年(1922)建立され
       た「波除住吉神社址」の石碑がある。明治三十九年(1906)の「神社合
       祀令」の影響なのだろうか、明治四十一年(1908)九月の移転許可を受
       けて、大正十年(1921)十一月、住吉の境外末社として遷座されたので
       ある。
       大鳥の摂社、大鳥井瀬神社も同時期同様に当地へ遷座された様で、冬至の設
       計図に「右方大鳥」とあり、同じ建築様式の二社殿が西向きに並祀されてい
       た。元の鎮座地は、石津川の東、八田荘村堀上大明神山と云う。
       御祭神は住吉大神と弟橘姫である。
       御社殿は昭和二十年七月戦災で炎上したが、同二十四年に兵庫の廣田神社の
       御用材を以て再建され相殿となった。その後五十年を経て再び地元堺の人々
       に依って平成十一年の秋、御本殿修復の御造営に奉告祭が斎行された。
       
       兜神社
       神功皇后御帰陣の砌、甲を神に祝い奉りし処と「堺鑑」は云う。同社は明治
       四十一年開口神社に合祀された。
       
       飯匙堀
       海幸山幸の彦火火出見尊が所持していた潮干珠を埋めた処と云い伝えられ、
       堀の形が飯匙に似ている事から飯匙堀と名付けられたという。夏祭にはこの
       堀で、荒和大祓神事が執り行われる。
       
       名越の岡
       明治の頃まで御旅処の東方に小高い丘があり、「名越の岡」と言われていた。
       頓宮の中庭に刻まれた石柱がある。
       
       桜祭
       平成元年から始まった祭りで、先の戦いの後、先代の総代が堺の復興を願っ
       て植樹されたと云う桜は、境内及び公園地内に約四十本もあり、堺の桜の名
       所の一つに数えられ、開花中は花見の参詣者が絶えない。」
  住  所:大阪府堺市堺区宿院町東2‐1‐6
  電話番号:072‐232‐1029
  ひとこと:住吉大社の御田植祭を見学した際もいただいたパンフレットに、
      『伝承によれば、住吉大社ご鎮座の際、神功皇后が住吉大神の御供田として神
       田を定められ、長門国(現在の山口県)から植女を召したことに始まるとい
       う。
       後に植女の末裔が乳守の遊女になったという伝承があり、堺の遊女が植女を
       奉仕するという習わしがあった。』
       とありました。
       
       その時はうすぼんやりと「乳守とは頓宮のある場所あたりかな?と想像して
       いたんですが、どうやらビンゴだったようで。
       頓宮からすぐ南側、南旅籠町東あたりが乳守遊郭のあった場所のようです。
       
       ここから少しだけはずれますが、南半町東にある臨江寺の境内に乳守神社が
       あり、堺市の案内板によれば「女性の守り神様」とされているようです。
       
      「宿」は「しゅく」。
       そこに古くからある清め祓の神社とは、なんとも惹かれるじゃありませんか。
       
       さらにすぐそばには、神功皇后自らが集めた遊女の里。
       
       それだけで、いろいろなことが想像できるでしょ?
       ですからくだくだと云いません(笑)
       
       ただ、堺市の案内板では、飯匙堀について、
      「この堀は「潮干珠」を埋めた所で、どんなに雨が降っても水が溜まらないと
       いう伝説があります」
       と説明してるんです。
       
       どんなに旱魃が続いても水が尽きない井戸なら聞いたことがありますが、ど
       んなに雨が降っても溜まらないって珍しくありません?
       
       そんな場所で大祓が執り行われます。
       この場合の「水」は何を表象してるんでしょうね?
       
       神の秘密を解き放つのが水の女=遊女だとすれば、水と縁のない場所で何が
       行われるのか???
       なんてね。
       
       想像力が膨らみます。
       
       キレイはキタナイ、キタナイはキレイ
       Fair is foul, and foul is fair.
       
       強烈な聖と穢を背負うがゆえに、そのどちらからも解放されたシュクの人々。
       往古の日本人は、そのダイナミズムを、むしろ「貴」としたのではなかろう
       かと、私は思います。
       
       その原始的な力強さを、美しさを、清らかさを。
       私は自分の中に絶えず、細々とでも燃やし続けていたいのです。
 

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