祭 神:多紀理毘賣尊 市杵島比賣尊 多岐津比賣尊 (相殿)大山祇命 稚武王命 説 明:境内案内板を引用します。 「本社の御鎮座は悠遠の昔であって、早くより朝廷の尊崇厚く奈良朝天平十年には大伴古麿に勅 命して田島大明神を贈らせ給う。大同元年には神封十六戸を充てられ正四位に列せられ元暦二 年三月正一位に塁進し給う。延喜の制に於いては当国にて唯一の明神大神に列せられ中世以降 は武門の尊信を受けて歴代唐津城主の祈願所となり明治四年国幣中社に列せられ毎年勅使を派 遣されていたが大東亜戦争後宗教法人となり別表神社に編入され今日に至る。 海陸交通安全豊作大漁商売繁栄の祈願所となる」 「佐與姫神社 松浦佐與姫を祭るこの神社は、宣化天皇二年十月、大伴狭手彦は勅命により、任那を援護する ことになり、京の都を発し、松浦国篠原の里に滞在した。篠原村長者の娘佐與姫は心優しく狭 手彦と相思の仲となった。いよいよ出航の時、別れを惜しみ後を慕い、領巾振山(鏡山)に登 り遥かに船陰を望んだ。更に松浦川を渡り沖合遠く走る帆影は小さく雲間に没して見えなくな った。 姫の悲嘆はますます募り、田島神社の神前に詣でて夫の安泰を祈念しながらも泣き続け息絶え て神石となられた。世に言う望夫石である。これをお祀りしたのが当社である。豊臣秀吉より 文禄二年百石の御朱印以来、徳川将軍家に引き継がれた。その後佐與姫の想いがかない、狭手 彦は無事帰国した。以後唐津城主の姫君などがお忍びで再三参拝され、良縁のお守を持ち帰ら れた。 依頼縁結びの守神として信仰厚く、男女の参拝は習俗となって現在も続いている」 「頼光鳥居 この鳥居は肥前鳥居として、佐賀県最古のもので、今より約一千年前(円融天皇、天元三年) 大江山の鬼退治で有名な源頼光が肥前守として都より下向の際に寄進したものである。田島宮 の文字は参議藤原佐里卿の筆でらう。その後、風波の為に崩れ、松浦党領袖波夛氏鳥居を修造 して今日に至る」 住 所:佐賀県唐津市呼子町加部島3965−1 電話番号: ひとこと:松浦縣 佐用比売の子が領巾振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ 山上憶良の歌ですが、松浦の佐用姫を詠んだ歌は、万葉集に十以上収められています。 はっきり「佐用姫」の名を出してないものも多く、さほどに有名なエピソードだったんでしょ うね。 私も、松浦佐用姫の伝承地だと知って、この神社にお参りしました。 領巾を振る仕草にはいろいろな意味がありそうです。 袖を振るのは「あなたのことが好きです」の意味。 往古、日本人は袖に魂が籠っていると考えました。 だから、袖を振るのは心を震わせるのと同じ意味があったのです。 領巾も多分同じじゃないかな。 須勢理姫の領巾を振ると、百足や蛇を寄せ付けない力を発揮したという話が記紀神話にありま すから。 で、あれば、佐用姫が領巾を振ったのは、別れを惜しんでのことではなく、旅立つ狭手彦に魔 が寄ってこないようにとの呪いでしょう。 鏡山は電車の中から撮ったので多少ぶれていますが、海に近い場所にぽっこり独立して盛り上 がった山でした。