祭 神:天甕津比女命 説 明:境内案内板を転記します。 「御当社の主祭神は、天甕津姫命と称奉る女神さまで、八束水臣津命の御子、 赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命の御后神様であります。 夫神様の佐和氣能命が『出雲の国は狭布の如き稚国なり』と国土経営開発の 大業をされた際、その神業を補翼し、大功績をお挙げになられた神性勇剛で 見目美しい女神さまであります。 偶々開拓の中途で余程お困りになられた事があったようで、出雲国風土記の 一説に『伊農速と仰せられた』と所載されています。 現代風に言うならば『あなた速くおいでになって下さい』ということになり ましょうか」 住 所:島根県八束郡鹿島町南講武602 電話番号: ひとこと:案内板にあるエピソードは、出雲国風土記の秋鹿の郡、伊農の郷の条にある 話で、地名の由来を説明する短い神話です。 でもこのご祭神についてもっと詳細に記載されているのが、尾張国風土記逸 文なんですよね。 吾縵の郷の条です。 風土記から転載しますね。 「丹羽の郡。吾縵の郷。巻向の珠城の宮に天の下をお治めになった天皇(垂仁 天皇)のみ世、品津別の皇子は、生まれて七歳になっても口をきいて語るこ とができなかった。ひろく群臣に問われたけれども、誰一人よい意見を申し あげるものがなかった。その後、皇后の夢に神があってお告げをくだし給い、 『私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女というのだ。私はまだ祭ってくれ る祝(祭主)をもっていない。もし私のために祭る人を宛てがってくれるな らば、皇子はよく物を言い、また御寿命も長くなるようになる』といった。 帝は、この神が誰で、どこにいるかを探し出すべき人を占わせると、日置部 らの祖建岡君がその占いに合った。そこで神をたずねさせた。その時建岡君 は美濃の国の花鹿の山に到り、榊の枝を折り取って縵に造り、祈誓して『私 のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう』といったとこ ろが、縵はとび去ってここに落ちた。そこで神がここにおいでになると知っ て(縵の)社を建てた。この社名によって里に名付けた。後の人は訛って阿 豆良の里という」 古事記では「出雲の神」としかありませんが、ここでははっきり、「あまのみ かつひめ」の名が出てきますね。 また、本牟智和気が言葉を話すきっかけとなった、出雲の臣の祖先「岐比佐 都美」は、名前を見るに女性ですね。 巫女かもしれません。 このエピソードには、一夜の結婚をした大蛇の姫、肥長姫も登場します。 なんというか、女性、女性、女性!! 出雲の国は、女性の色の濃い場所だとおもえてなりません。