祭 神:稚日女尊(丹生都比賣神) 衣通姫尊(軽大郎女、衣通王) 説 明:境内案内板を引用します 「ここ忍坂の地名に、かつて意柴加、於佐箇、押坂など古代史を多彩に飾り、神話 の『記紀』ともに神武天皇東征の折、『忍坂の大室』としても登場します。また、 隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡の銘文にも『意柴沙加』の地名がみえ、大和の地名 を刻む最古のものです。 稚日女尊は伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子で、天照大神の妹神とされ、後世またの御 名を丹生都比賣と申されます。 古事記では皇后忍坂大中姫の御名代として刑部(忍坂部)を定めたと記録され、 この忍坂の地に宮があったことを証しています。 第十九代允恭天皇(在位四三年ー四五三年)と忍坂大中姫との間に、第五皇女と して誕生したと古事記に伝わる衣通姫(軽大郎女)は、この地で生まれ、以て字 『生谷』として今に残り、そのとき使ったとされる『産湯の井戸』がここにありま す。記紀ともに衣通姫は絶世の美人といわれ、その美しさは衣を通して輝いたこ とから名づけられ、本朝三美人の一人とも称されています。 また、和歌主神の一つとして和歌浦玉津島神社に祀られるのは、同一ともされて います。 古来より、村人は女子誕生にこの井泉を産湯として使ってきたと伝わり、この伝 承地とされるところから、井戸の石積み跡が見つかり、悠久の年月を経て蘇って います。 衣通姫が詠んだ歌として、 『夏草の あひねの濱の蠣貝に 足踏ますな あかしてとほれ』(古事記) 『君が行き け長くなりぬ 山たづの 迎へを往かみう 待つには待たじ』(古事記) (萬葉集巻二ー九) 『我が夫子が 来べき夕なり 小竹が根の蜘蛛の行ひ 今宵著しも』(日本書紀巻十三) 」 住 所:奈良県桜井市忍阪生谷 電話番号: ひとこと:和歌山の玉津島と同じ社名なのは、後付けなんでしょうか。 また、この地では、衣通姫は允恭天皇と大中姫の娘と伝わっているのでしょうか? 日本書紀では、大中姫の妹ってことになってるんですよね。 古事記では允恭天皇の娘で、実兄の木梨軽皇子と恋に落ち、その罪で島に流され たとされています。 大中姫が幼少のころ、園で遊んでいると闘鶏国造が通りがかったとあります。 闘鶏国は大和の北東部……今の都祁あたりでしょうから、大中姫の生家もそのあ たりと考える方が自然でしょう。 ならば、ここ、忍坂部(刑部)で生まれたのはやはり、大中姫の娘である可能性 は高そうです。 日本書紀で、 『我が夫子が 来べき夕なり 小竹が根の蜘蛛の行ひ 今宵著しも』 は、允恭天皇の訪れを待って詠んだとされていますが、木梨軽皇子を思っての歌 だと思えば、しみじみ心に沁みますねぇ(#^.^#) 蜘蛛が騒がしく活動しているから、今日はあなたが来てくれそうな気がする。 とすればこの時代、蜘蛛は不吉な虫ではなく、むしろ吉兆だったのでしょうね。