祭 神:倭迹迹日百襲姫命 五十狭芹彦命(吉備津彦命) 猿田彦大神 天隠山命(高倉下命) 大五田根命(天村雲命) 以上五柱の総称を田村大神と申す。 説 明:ご由緒書を引用します。 「ご祭神 倭迹迹日百襲姫命は皇祖第七代孝霊天皇の皇女で、崇神天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを 救い、また武埴安彦の謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功を上げた事により百襲(襲うは 勲功の約)の名を負う。後五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り農業殖産の開祖 神となった。御陵(昼は人が造り夜は神がこれを造ったといわれ箸の陵といわれている)は大 和国城上郡大市村にある。 五十狭芹彦命は倭迹迹日百襲姫の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神と なった。 猿田彦大神は皇孫瓊瓊杵尊降臨のとき天の八衝に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護し た神で、この神の向かうところはいかなる禍神も恐れて避け奉ったといわれ、方除神として神 威まことに偉大である。 天隠山命は皇祖神武天皇の御東征の際、窮地を救った神で、後に御子天五田根命と共に紀伊国 より当国に渡り、山河をもって国郡の境界を分かつなど開拓水利の基を定めた。 由緒 当神社起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり、往古よ り『田村大社』『定水大明神』又は『一宮大明神』とも称され、人々により篤く崇敬されてき た。 嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、 讃岐國の一宮に定められて後は度々神階を授けられ、建仁元年(1201)正一位の極位に叙 せられた。 室町時代、貞和二年(1346)管領細川頼之が領主だった時には社域を拡築して『一切経』 を奉納し、長禄四年(1460)細川勝元は社頭に壁書を掲げさせて神事の厳粛に努めた。降 って天正年間、仙石氏、生駒氏が此の地を領するのに及んで、夫々社領を寄進し、江戸時代明 暦元年(1655)松平頼重が国守に任ぜられたときには社殿を修造して更に社領を寄進し、 延宝七年(1679)には神仏習合を廃し、江戸時代の初期に於いて早くも唯一神道の道を開 き爾来松平家の祈願所として累代社領を寄進、或いは家宝を奉納する等、武門・幕府からの崇 敬も篤かった。 明治四年(1871)には、新しい神祇制度のもと国幣中社に列せられ、現在は神社本庁の統 括のもと、別表神社となっている。 当神社奥殿の床下には深淵が在り、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちて いて、古くから神秘を伝えている。又領内に水旱があれば領主奉行は必ず当社に祈願したとい い、定水大明神と称される所以である」 住 所:香川県高松市一宮町286番地 電話番号:087-885-1541 ひとこと:讃岐平野のほぼ中央部に鎮座する神社で、東に香東川が流れるうえ、地下にはその伏流水が流 れていたと言います。 香川県には大河がなく、夏になると水不足に悩まされる土地ですから、稲作には適した土地だ ったのでしょうね。 ご由緒書きにある説明によれば、ご神体は社殿内の淵で、龍神が棲むとの伝説があるとか。 境内東にある袂井は現在も水が出ますが、西にある花泉は涸れ井戸。 袂井は百襲姫がこの地に来臨した際、里人の奉る烏芋を食べてにわかに熱病に罹り、渇きを訴 えられたときに、次女が袂を浸して水を奉った井戸と伝わっているとか。 花泉は百襲姫が手を洗った井戸。 この神社もまた、「水」にフィーチャーしていることがわかるでしょう。 でも、境内はちょっとしたパラダイスでしたけどね(^^ゞ