祭 神:一事尼古大神 事代主大神 説 明:ご由緒書を転記します。 「由緒 創立年月日は不詳ですが、延喜式神名帳に『葛下郡、調田坐一言尼古神社、 大、月次、新嘗』と記された式内大社です。 (延喜式神名帳は、平安時代に全国数万の神社より特に霊験のあらたかな神社 を記載されたもので、大とは大社のことです。祈年祭、月次祭(六月、十二 月)新嘗祭の都合四度際は幣帛を奉られた式内大社です) 新抄格勅符抄に神護景雲四年(奈良時代)神封二戸(大和で一戸、播磨で一 戸)を充奉られた旨の記載があり、又三代実録(平安時代)に、『清和天皇 貞観元年(895年)正月廿に地甲申奉授大和国従五位下調田坐一言尼古神 従五位上』とあり、奈良朝以前から祀られた由緒のある神社であります。以 来沿革は不詳ですが、安政四年拝殿を改築し、文久元年七月、馬場を開設し、 同二年六月石の鳥居を建設し、石灯籠、狛犬、絵馬等の奉納により境内の充 実をみました。明治六年四月村社に列し、同四十年九月二十四日神饌幣帛料 供進の神社に指定され、新庄一村の崇敬神社として厚い信仰を集めています。 御祭神 一言尼古大神は、一言主大神にして事代主大神と同神であります。 遠く神代の昔、平和と円満を旨とされた大国主神の御子で国譲り(国土開拓) の大業を助け、率先して、皇孫をお守りになり、農耕の発展をはじめあらゆ る商工業の守護神、厄除開運の神として人間生活の幸福を増進することをは かられた神であります。事代主ということは『事』は事始、祭事で『代主』 は、『田主』すなわち田の神であります。 また、『古事記』には雄略天皇が葛城山に狩に行かれたとき、一言主神が顕 現され、『吾は悪事も一言、善事も一言に言いはなつ神なり』と言われ、一 言で願えること、一つの願いごとなら何でもかなえてもらえる神としてなが く崇敬されてまいりました。 国譲りにおける誠の精神の具現により、農耕の発展とともに、今日の疋田の 繁栄を予知啓示せられた御鎮座の由来はまことに深遠なる御神慮と申すべく すべての物事を照覧し給う広大無辺の御神徳を福徳円満の神として仰ぎ格別 の崇敬と敬慕を捧げる由縁であります。」 住 所:奈良県葛城市疋田402 電話番号:0745−69−3353 ひとこと:一言主神とは、葛城を本拠とする神であり、賀茂氏の氏神であるらしい・・。 それくらいの意識しかなかったのですが、この神社では、事代主神と同神で ある、とされています。 事代主神は、出雲国譲りでは、父・大己貴神に、天孫に出雲を譲ることを薦 めた、とされる神です。 しかし、決して「満足して」ではないように思います。 古事記では、 「事代主の神を呼んで来てお尋ねになった時に、その父の神様に『この国は謹 んで天の神の御子に献上なさいませ』と言って、その船を踏み傾けて、逆に 手をうって青々とした神籬を作り成してその中に隠れてお鎮まりになりまし た。」 と表現されていますが、 つまり、船を自ら転覆させて海に沈んだ、ということになります。 逆に手を打つ、という動作も、不穏当に思われますよね。 しかし、この事代主神は、まずもって「謹んで国を献上なさいませ」と父神 に奏上した功績(?)からか、天孫系の神々からは、頼りにされているよう です。 神功皇后が三韓へ向うときはその守護をしていますし。 ただ、神功皇后の夫である仲哀天皇は、天孫・瓊々杵の子孫であるかもしれ ませんが、神功皇后自体は、天孫系ではない、ともいえます(笑) だいたい、神功皇后と応神天皇神話は、「母子神話」とも呼べ、「父不在の 物語」ですしね。 また、考えようによっては、仲哀天皇の死は、神功皇后に原因があるとも読 めるんですよね。 それに、仲哀天皇の死後不自然なほど時間が経って応神天皇が生れているこ とを考えると、応神天皇は、仲哀天皇の子ではないんじゃないのか、などと いう邪推もできます。 つまり、神功皇后は、天孫の血筋以外から天皇をたてた張本人……という考 え方も出来るわけで・・・。 事代主神は、「天孫系を助けるふりをして、実は、天孫系の力を削いだ神様」 そして、その事代主神の加護をいただいた神功皇后もまた、天孫系の妻とな ったふりをして、天孫系から皇位を奪った女傑・・・。 そう考えるとドラマですね(~_~) 賀茂の人々は、天孫系と親しいのか、対立していたのか。 記紀を読む限りでは、はっきりしません。 賀茂氏とされている、 「建角身命」は、神武天皇が大和へ侵攻してきた時、そのさきがけを担ったと しています。 そして、その功績により山城の国を賜った、と。 しかし、古事記にはまたこんな一文もあります。 「其地より幸行でまして、忍坂の大室に到りたまふ時に、尾ある土蜘蛛八十建 その室にありて待ちいなる。かれここに天つ神の御子の命もちて御饗を八十 建に賜ひき。ここに八十建膳夫を設けて、人ごとに刀佩けてその膳夫どもに、 おしへたまはく、『歌を聞かば、一時共に斬れ』とのりたまひき。かれその 土蜘蛛を打たむとすることを明して歌よみしたまひしく、 忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも、 みつみつし 久米の子が、 頭椎い 石椎いもち 撃ちしてやまむ。 みつみつし、久米の子らが、 頭椎い 石椎いもち 今撃たば善らし。 かく歌ひて、刀を抜きて、一時に打ち殺しつ。」 土蜘蛛塚は、一言主神社の境内と、高天彦神社の側にあり、それらの土地は、 賀茂の本拠地です。 ・・・この土蜘蛛と賀茂の関係は深いようなんです。 同じ賀茂の名前を戴きながら、道案内役となった、建角身命。 土蜘蛛として撃たれた人々。 それは、天からの使者に国を譲ることを奏上しながらも、逆手を打つという、 呪詛に通じる行為をした、事代主命に繋がるものを感じます。 そう考えると、一言主神と事代主神が同神である、ということにも頷けるよ うに思います。 しかし・・・。 一言主神・事代主神とは、一体どう言った神様なのでしょうね。 敵なのか味方なのか・・・。 なんだか、「草のもの」を思い出します。 「草のもの」とは、忍びの一形態(?)です。 敵方に家来として雇われ、何年も、場合によっては何代にも亘って仕え続け るのです。働きは優秀・忠実。信頼される家来となります。 そして、いざ、事が起きたときは・・・。 その信頼を武器に、根底からこの「敵」を崩しにかかるわけです。 そう考えると、一言主神を氏神とする建角身命が神武天皇の案内役をしたの も、深い意味があるのかもしれないと思えます。 神武天皇の信頼を得ることにより、神武天皇の家系を近い将来根絶やしにす る・・・というような・・・。 実際問題、記紀では、「万世一系」つまり、天皇家は天照大神から続く家筋 である、としていますが、実際、神武天皇が実在したかはわかりません。 ですから、初代「人皇」を案内した、建角身命の目論見がうまくいったかど うか、もわからないのですが、一言主神の子なのですから、きっとどこかで 成功したことでしょう。 そして、そんなことを考えると、一言主神の名セリフ。 「吾は悪事も一言、善事も一言に言いはなつ神なり」 という言葉の意味も、なんだか、奥深げに思えてきます。 悪い事も、善い事も、一言に言い放つ・・・。 どういう意味でしょうね。 この「一言」という言葉を文字通り、「一つの言葉」と解釈したらどうでし ょうか。 つまり、悪い事も「ある一つの言葉」で、善い事も「ある一つの言葉」で、 表現するのだ・・・と解釈したら、です。 その「ある一つの言葉」とは? それこそそれは、「暗号」です。 忍び同士が互いに連絡しあうための合図です。 ・・・などと(笑) どうも・・・頭が、葛城と忍びの関係から離れなくて・・・。 トンデモなんですよね〜、この頃(^^ゞ