祭 神:応神天皇 比売神 神功皇后 説 明:境内案内板を転載します 「当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平六年(1063))報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。 治承四年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し『祖宗を崇めんが為』小林 郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。 建久二年(1191)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し、大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在 の結構に整えた。 依頼当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い、篤く尊崇した。」 住 所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目 電話番号: ひとこと:源頼朝公の創建で、武神としての尊崇も有名ですが、私の興味は、「静御前関連の史跡」としてです。 源頼朝が弟の義経を罪人として追ったとき、義経はまず吉野山に入ります。 静御前はそれに従いますが、女の足ではついていけないと離別。 一方頼朝は、義経がつかまらないことに業を煮やし、静を鎌倉へ召します。 そして、義経の行方を問いただしますが、静は知らないと答えるんですね。 その後、頼朝は、静を鶴岡八幡へ呼び出し、舞を舞うよう命じます。 すると静は、「しづやしづ、しづのおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな 吉野山、峰の白雪ふみ分て、いりにし人の、跡ぞ恋しき」 と、義経を思う心を隠さず歌い、舞います。 それを聞いた頼朝は激怒。 妻の北条政子に、「あなたが罪に問われていたとき、彼女の立場だったら同じように歌うでしょう」と諫められています。 その時妊娠していた静は、ほどなく男児を出産しますが、その子はころされ、由比ガ浜に捨てられたのでした。 「しづやしづ」の舞を舞ったとされる渡殿は焼失し、今は舞殿が建っています。 由比が浜は、訪れたのがクリスマスだからか、カップルだらけでした(笑) 静御前は、「苦しみを背負って放浪した女性」の一人。 私が追いかけている女性です。 「しづやしづ」の歌は、いろんな意味が籠められていると言われますが……。 愛する人への思いなんてものは、一言では言い表せるはずもないですね。