祭 神:月讀命 配祀:伊邪那岐尊 伊邪那美尊 説 明:案内板から転載します。 「月讀神社は月讀尊(天照大御神の弟)とその両親の邪那岐尊、伊邪那美尊の三柱を祀り、明治十年に 延喜式内の神社と定めらる。 本社は平城天皇の大同四年、天皇譲位の後、宮殿を平安京より平城京に遷されんとせられし解き、造 宮使がその途、大住山において、霊光を拝し、ここに神殿を造りしに創まるという。 貞観元年八月に月讀宮と称え、承歴元年には天下疱瘡に悩むにつき、勅使参幣ありしという。 建久六年、源頼朝が鎌倉より上洛し、当社に神馬を献じ、松井及び河内片野郡招提を神領として寄進 したと。貞応二年二月には、鴨武隅命の裔葛野家友によって、社殿再建、元弘元年九月には笠置山に 後醍醐天皇が遷られし時、大住の一族並に岡本弾正久織等見方に走せ加わり、統治戦乱の巷となり、 神殿兵火にかかるという。貞治三年には葛野義威神殿再興し、至徳三年八月、御牧の伊豆前司基定と 大住飛弾守義季と争い合戦のため、御霊神社兵火のため焼失し、康応元年四月に大住若狭守義宣が再 建。延徳三年八月には岡村城主城五郎左衛門の尉伴行宣神殿修理し、天文十一年には大住城主大住石 見守元保と八講寺城主東長門盛章等社前にて勧進能を行い、江戸時代となっては文久戌年九月十八日 神輿再興し、慶應四年正月六日には石清水八幡宮が遷座のことあり、それより神饌料として玄米一俵 奉納あるを高齢とした。毎年一月八日、これを行い来たが、今は絶えている。 明治時代には明治二十六年十二月に本殿改築し、帝室技芸委員、名古屋の伊藤十左衛門の設計により、 竣工した。これ時の社殿なり。昭和五十一年十一月、拝殿改築、昭和五十四年六月舞殿改築、昭和五 十八年十二月社殿改築(大工西広芳夫、瓦屋堀川工務店)これ現在の社殿なり」 「隼人舞伝承地 九州南部の大隅隼人が七世紀頃に大住に移住し、郷土の隼人舞を天皇即位にともなう大嘗祭のときな どに朝廷で臙脂、また月読神社に奉納して舞い伝えてきた。隼人舞は岩戸神楽と共に日本民族芸能の 二大源流ともいわれ、『古事記』や『日本書紀』の海幸彦山幸彦の神話に起源するといわれている。 文学博士志賀剛氏(1897〜1990)は能楽五座のうち外山座が月読神社の外山神楽座であるという。 更に、隼人舞継承者牧山望氏(1900〜1991)によって隼人舞が復元され、毎年十月十四日の秋期例祭 宵宮に奉納されている。現在では地元の人々を中心に、大住隼人舞保存会あg結成され、大住隼人舞、 隼人踊りが継承されている。大住隼人舞は、昭和五十年(1975)十二月十九日に田辺町(現在は京田 辺市)指定文化財第一号に指定された。 住 所:京都府京田辺市大住池平16 電話番号: ひとこと:式内大社に比定される神社です。 大隅の隼人が移住して、地名が大住。 また、この神社も、鳥居より本殿が下にありますね。 ふぅむ。 この地に移動してきた隼人たちは、舞を見せるのが仕事だったんでしょうか? 芸能の民は、移動しながら自分たちの技能を見せるのが常ですが、この地の隼人は事情が違います。 彼らは普段、どんな生活をしていたんだろう? なんというか、「気配」がとても強い神社だと感じたんです。 私が参拝したときは誰もいなかったんですが、お参りを終えて振り返ったら、鳥居のところに人が立 っているように見えたんですが……カラスだったんですよね。 あちらこちらの神社に参拝していると、不思議なことも結構あるんですけど、この神社も何か、不思 議な感じでした。 どこがどうって言えないんですけどね。