祭 神:天乃夫岐賣命 田凝姫命 市杵島姫命 端津姫命 説 明:境内に貼付してあった、ご由緒書を転載します。 「涌出宮縁起 1.古来より天下の奇祭『いごもり祭』で世に知られる湧出宮は、JR奈良線 棚倉駅前の鎮守の森に鎮座する古社である。(旧社格は「延喜式内社・郷社」) 2.創建は、今より千二百年余り前の、称徳天皇の天平神護2年(766)に、 伊勢国度会郡五十鈴川の畔より、御祭神として此の地に勧請申し上げたと伝え られている。 社蔵の文書(和岐座天乃夫岐賣大明神源縁録)によれば、御祭神天乃夫岐賣命 とは、天照大神の御魂であると記されている。恐れ多く、神秘なるが故にかく 称し上げたとある。後に田凝姫命、市杵島姫、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請 して併祀したとある。 尚、この三女神は、大神とスサノオの命との誓約によってお生まれになった御 子である。(涌出宮大明神社記に拠る) 3.大神を此の地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌きだし四町八反余 りが、神域と化したので、世の人は恐くし、御神徳を称えて、『涌出の森』と 呼称したと言い伝えられている。 4.山城の国祈雨神十一社の一社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。清 和天皇(859年)や、宇多天皇(889年)が奉幣使を立て、雨乞祈願をさ れたところ、霊験により降雨があったと記されている。 いごもり祭(居籠祭・齋居祭)起源など 1.天下の奇祭『いごもり祭』の起源については諸説の伝承がある。 崇神天皇の御代に、天皇の庶兄で、当地山城地方を任せられていた、武埴安彦 命の軍が、大和朝廷軍と戦い敗北して安彦は非業の最期を遂げた。その後、数 多くの戦死者の霊が祟り、この辺りに悪疫が大流行して人々を悩ませた。 村人達は齋みこもって悪疫退散の祈祷をし、かくして霊が鎮まった。これが、 いごもり祭の起こりと言われている(日本書紀)。 因みに、木津川対岸の祝園神社でも、いごもり祭を齋行されている。伝説では、 安彦が斬首されたとき、首は川を越えて祝園まで飛び、胴体は棚倉に残ったと 言われている。 祝園神社では、安彦の首を型どった竹輪を祭に用い、涌出宮では同体を型どっ た大松明を燃やすのだ、との言い伝えもある。 2.昔、鳴子川へ三上山から大蛇が出てきて、村人を困らせたので義勇の士が これを退治したところ、首は祝園に飛び、胴体は棚倉に残ったとの言い伝えも ある。 3.『いごもり祭』は、昔は『音無しの祭』と言われ、村中の人達は、家の中 に居ごもって年乞の祈りが成就されるまで一切音を立てなかったという。 4.現在では、『いごもり祭』は、室町期の農耕儀礼を伝える豊作祈願の祭と 言われ、更に春を呼び幸せを招く、除厄招福諸願成就の祭として、大いに世人 の注目と信仰を集めている。」 住 所:京都府相楽郡山城町平尾里屋敷 電話番号:0774−86−2639 ひとこと:天乃夫岐賣命(あめのふきめのみこと)というお名前は、初見です。 社伝によると、天照大神の別名ということですが、「あめのふきめ」という音 を考えると、何かが吹き出る・・・湧き出るというような御名ではないか、と 感じます。 これまた社伝では、湧き出たのは森ということですが、「湧き出る」という表 現は、「森」よりも「水」に相応しいようにも思います。 例えば・・・泉? このお宮は、「山城の国祈雨神十一社の一社」でもあるわけですから、何か、 「水」の属性を持っているお社だろうと思いますしね。 太陽神である天照大神の属性の一つが、「水」ということなのでしょうか。 それとも、天照大神は、水の神・・・とか。 そもそも、太陽と同じくらい水は大切なもの。 天照大神という女神には、「大事なもの」を具現する、何かがあるのかもしれ ません。 さて、この神社に伝わる「いごもり祭」の起源は、人々を脅かす悪霊か大蛇を 退治したことから始まるとされているようです。 面白いのは、どちらも、「頭は祝園に飛び、胴体は棚倉に残った」とされてい る点。 「頭」と「胴体」。 ここに何か意味があるようには感じませんか? 例えば。 「司令部」と「実行部隊」 とか・・・。 考えすぎ(^^ゞ??? まぁ、妄想や、考えすぎ、勘違いなどを恐れては、勇なきなりと言いますので、 (どこがっ(≧▽≦)?!)、このまま行きましょう。 そして、「胴体は棚倉に残った」という表現は、もともと、「敵」は、棚倉に いた、もしくはあったわけですよね。 ここで、地図でも見てみましょう。 確かに、この涌出宮と、祝園神社は、木津川を挟んで向かい合っています。 昔の地形はわかりませんが、今の地図で見ると、祝園神社のある相楽郡精華町 は、平地です。等高線が描かれていません。 それに比べて、涌出宮のある相楽郡山城町は、名前の通り、山地です。 涌出宮のすぐ側に山が迫っています。 つまり、「埴安彦の悪霊」or「大蛇」=「敵」は、山にいた、ということには なりませんか?? ということは、この戦いにおいて、一人称側・退治した側は、多分、平地に住 んでいたのでしょう。 そして、「敵」のうち、実行部隊は、山に残った、と。 そして、司令部は、「退治しようとしている人間達」の方にやってきた・・・。 ということになります。 これって、「退治された」とは言えないような気がする(笑) それじゃあ、なぜ「司令部」は、自分達を「敵」とみなし、倒そうとする人達 の方へやってきたのでしょうか。 司令部ということは、その集団のリーダーとその側近ということになりますよ ね? そんな人々が、ボディガードも連れずに、敵地へやってくるとは、どういうこ とでしょう? かんがえられるのは、 「騙まし討ちにされた」 という可能性。 「和平を結びましょう。つきましては、酒宴でも。」 などと、「司令部」を呼び寄せ、騙まし討ちにした、などということが、すぐ に頭に浮かびます。 ある意味反対、のパターンも考えられます。 「司令部」「頭」というのは、リーダーのことではなく、文字通り、 「頭脳集団」だった、ということです。 そして、「実行部隊」「体」とは、「武装集団」。 武装集団は自陣に残り、頭脳集団だけが敵地へ赴く。 となると、この「頭脳集団」とは、スパイだったのかもしれない、と考えられ ます。 そして、自分達を脅かす人々を内部から崩した、と。 ただ、重要なのは、涌出宮・祝園神社共に、この伝承を、今に至るまで伝えて いるということです。 後者のパターンならば、倒された側も、倒した側も、「伝承」を伝える必要性 をそれほど感じません。 倒された側は、スパイにやられたとは気付かないでしょうし(気付いた人は、 殺されちゃうだろうし)、倒した側は、自分達がスパイ行為をした、というこ とを伝え広めたいとは思わないでしょう。 「私、スパイなんですよ〜」 と宣伝するようなスパイが、優秀だとは思えないですからね(^^ゞ つぅか、スパイ失格(笑) 前者のように、卑怯な手で倒された人々が、「相手の卑怯さ」を伝え残したの が、「いごもり祭」である、と考える方が無理はないですね。 そして、その妄想が当っていたならば、その「いごもり祭」を今に伝える人々 というのは、無念の死に泣いた人々なのではないか、と。 そして、そう考えれば、この祭についての、 「昔は『音無しの祭』と言われ、村中の人達は、家の中に居ごもって年乞の祈り が成就されるまで一切音を立てなかった」 という説明が、別の意味を帯びてくるような・・・。 う〜む、意味深だ(笑) 後期 2015年12月12日、再び参拝したところ、神職さんがいらっしゃったの で、いろいろお話を聞かせていただきました。 この神社の「いごもり祭」は、二月ですが、これは神迎えの祭でもあるとのこ と。 運営は、与力座と呼ばれ、神職さんはこの座を「家筋グループ」と表現されて いました。 西暦766年に天照大神が降臨された時から、同じ家から世話役を出しておら れるというのです。 「家筋グループ」は与力座のほかに、天照大神が降臨された「古川」の地に住ん でいた人たちの子孫である「古川座」、伊勢から警護してきた人たちの子孫で ある「歩射座」、付き人を務めた人たちの子孫である「尾崎座」があるそうで、 それぞれ、決まった家の人でなければ座には入れないと。 また、古川座に属する家はすべて古川姓、岡崎座に属する家はすべて岡崎姓で あるとも教えていただきました。 神迎えの儀式は、彼ら「家筋グループ」だけで、他の誰にも見られないよう、 電車が途絶えた真夜中に行われるのだそうです。 そして私たちが訪れた十二月十二日は、偶然いごもり祭で迎えた神様を送り出 す日でした。 この日の終電が終わった後、家筋グループの人達で、神様をお送りするのだそ うです。 もちろんこのお祭は、他の誰にも見せないものですから、私たちにはどのよう な儀式が行われているか想像もつきませんが……。 神職さんのお話では、祠などの各所へお送りするとのお話でした。 また、縁起には、「天照大神遷座の天平神護二年」とはあるけれども、もとも とこの地には、清らかな泉が湧き出ており、それゆえに「涌出宮」と呼ばれて いたとも伝わっているとおっしゃっていました。 その泉への信仰は、天平神護二年よりはるかに古く、古来ここは豊かな地であ ったと。 さらに、「わき」は「分かれ道」の意味があり、奈良へ続く街道と、伊勢へ続 く街道の分かれ道がここにあったともおっしゃっていました。 なんともはや、重要な地なわけですよ……。 弥生式土器はもちろん、縄文土器も出土してるとのことですから、太古から、 「豊かな土地」として知られていたんじゃないでしょうか。 近くに、「散所」や「垣内」の地名があるのも、朝廷から見て強敵のいた場所 であったという証左になるのかもしれません。