祭 神:天御中主大神 蛭子大神 市杵嶋姫大神 説 明:境内案内板を引用します。 「神代の昔、蛭子大神が淡路島から和田岬に上陸した地といわれ、承安三年(1173年)には平清盛がこの地に広島 は安芸の宮島より市杵嶋姫大神を勧請しています。 万治元年(1658年)には氾濫によって、岡田宮のご神体が和田岬に漂着したことから、時の尼崎城主青山幸利は、 大社殿を造営しました。 和田神社は海の守り神として崇敬され、境内には知多半島を虚袁として江戸と兵庫を結んだ尾州廻船や江戸と 兵庫の承認たちが奉納した常夜灯などが残されています」 ご由緒書を引用します。 「当神社には天御中主大神を主神とし、相殿には市杵嶋姫大神と蛭子大神をおまつりしております。 特に主神の天御中主大神は関西地方でお祀りしている神社が極稀で、江戸時代の国学者、本居宣長が『天の真 中に坐々て世ノ中の宇斯たる神』また平田篤胤は『夭地萬物の主宰神』と解され篠クされたご祭神です。 もとの神域は現在の地より東南に約三町(800M)距る海岸にあり『蛭子の森』と呼ばれ、遠い神代の昔に蛭子大 神がご鎮座の霊地を求められて淡路から本州に上陸された最初の地が和田岬で、蛭子大神が祀られた西摂最古 の聖地です。かつて西宮神社の神輿が渡御されていたのもこのご縁によります。 時代はくだり、承安三年(1173)平清盛が兵庫津(神戸港)を基港に着手した際に工事がことのほか難渋し、 この事業の無事完成と将来の繁栄を祈願して、安芸の宮島より市杵嶋姫大神を勧請しました。 更にくだり、万治二年(1659)天御中主大神の坐す神輿がこの地に流れ着き種々の神異をあらわし、これを知 った時の領主青山大膳亮幸利は、神慮を慰むべく御社殿の台造営、やがてこの神を主神に、相殿には市杵嶋姫 大神と蛭子大神をお祀り申し上げました。 これより後は南浜の総氏神として広く人々に親しまれ、その時にあった社務所は隣松院と呼ばれその庭園は天 下の名林泉として称えられ、江戸時代には西国諸大名が参勤交代の折に長途の旅情を慰め、更に幕末において は勝海舟、十四代将軍家茂、十五代将軍慶喜、また勤王の志士の多くが参拝し、この書院で休息し、あるいは 密儀をこらすなど、明治維新の一舞台となったところでした。 しかしながら風光明媚をうたわれたこの地も国策による近代化の波が押し寄せ、この地に造船所の建設が計画 され、やむなく現在の御社地に御移転したのは明治三十五年のことでした。 現在では交通安全をはじめとする各種のご祈祷を祈願する神社として知られています」 住 所:兵庫県神⼾市兵庫区和⽥宮通3-2-45 電話番号:078-652-1551 ひとこと:つまり、岡田宮のご神体が天御中主大神ってことですね。 調べてみたら、西宮市にある岡太神社のことでしょうか……。 ご神体ですし、返却しようっていう話はなかったのかな? それとも昔の人は、「神様の意志で場所を移られた」と素直に解釈したのでしょうか。 蛭子大神が淡路島から本州に上陸したという考え方は、西宮神社の力が隆盛してから起きたのではないかなと も思われますが、順序はわかりません。 西宮神社が全国えびすの総本社となった背景には、西宮近辺を本拠地とする傀儡子が大きく関わっていること は知られています。 往古、全国を流浪した芸能の民たちは、場所を移しながら、さまざまな神の功徳を説いてまわりました。 淡島神社であれば、淡島願人が有名ですよね。 西宮えびすは傀儡子たちがその役割を果たしたわけです。 彼らは、神戸市内を何本も流れている河原を拠点としていました。 その近くにあったのが西宮神社。 ……ですから、西宮神社のそばに蛭子上陸の地を設定する必要があったのかなとも思うのですが……。 和田は「わた」。 つまりは海のことでしょう。 蛭子上陸の地でもあり、神功皇后帰朝の港でもある。 往古、この地は海の玄関口だったのだろうと思います。