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天石門別八倉比売神社

yakurahime

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伊魔離神社




  祭  神:大日靈女命(別名天照大神)
  説  明:境内案内板を引用します
      「御神格
       正一位、延喜式に記録された式内明神大社である。
       仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観十三年
      (八七一)二月二十六日に従世に上と次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦二年
      (一一八五)三月三日正一位となる。
       御神紋 抱き柏
       当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部
       を削り拝殿本殿を造営、奥之院の神陵を拝する。これは柳田国男の『山宮考』に
       よるまでもなく、最も古い神社様式である。
       奥之院は海抜一一六米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円
       部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石
       甕石を組み合わせた『つるぎ石』が立ち、永遠の生命を象徴する。
       杉尾山麓の左右に、陪塚を従え、杉尾山より峯続きの気延山(山頂海抜二一二米)
       一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
       当八倉比賣御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先
       導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記
       され、八百萬のカグラは、『嘘楽』と表記、葬儀であることを示している。
       銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮やかに踊り、水の女神との習合
       を示していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、『阿波におけ
       る天照大神』は『水の女神に属する』として、『もっとも威力ある神霊』を示唆
       しているが、余りにも知れれていない。
       当社より下付する神符には『火付(ママ)せ八倉比賣神宮』と明記。
       鎮座の年代は詳らかではないが、安永二年三月(一七七三)の古文書の『気延山
       々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ』の記録から逆算すれば、
       西暦三三八年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。しかも伝承した年代が安
       永二年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考え
       られる。
         矢野神山 奉納古歌
        妻隠る 矢野の神山 露霜に にほひそめたり 散巻惜しも
                    柿本人麿(萬葉集収録)
       当社は正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣社等と史書に見えるが、本殿には、
       出雲宿祢千家の謹書になる浮彫金箔張りの『八倉比賣神宮』の扁額が秘蔵され、
       さきの神符と合わせて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間
       違いない。
       古代阿波の地形を復元すると、鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に
       入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
       天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向比賣と申し上げるのも決して偶然では
       ない。
       なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。天文年間(一七三六ー四一)
       まで十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
       当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久
       二年(一〇七〇)六月廿八日の太政官符で、八倉比賣神の『祈年月次祭は邦国之
       大典也』として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の
       並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである」
  住  所:徳島県徳島市国府町矢野531
  電話番号:
  ひとこと:『八比賣御本記』は天照大神の葬儀を詳細に記録したものという説明がとっても
       気になるでしょ?
       
       でも、神職さんに聞いたところ、
      「そんな古文書があるそうなんですよ。でも私も見たことがないので、どんなこと
       が書いてあるのか、わからないんです」
       と。
       残念。
       
       ただ、ネット上で検索すると、民俗学を研究されている方が翻訳されたものが見
       つかります。
       それを見るに、葬儀とはどこにも書いていないような???
       
       私は読んでいないのですが、原田常治氏の『古代日本正史』に、岩戸隠れは天照
       大神の葬儀だというような話があるようです。
       天照大神の荒魂の名前である「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」を、彼女の忌み名
       とするのも古代日本正史の発想のようなので、この由来板を書いた方は、この本
       の影響を受けておられるのかもしれません。
       ……以前、ウェブ媒体に書いた神社紹介記事で、古代日本正史のファンというか、
       影響を受けまくっておられるらしき方からいただいたコメントから類推するだけ
       で、一応某社の公式媒体だったので、私が勝手にレスポンスをつけるわけにもい
       かず、確証は持てませんが……。
       
       ただ、岩戸隠れが天照大神の葬儀なのだとすれば、「笑う」という行為が気にな
       ります。
       
      「笑い」には、死者を復活させる呪的な力があると信じられていたのではないかと。
      
       そう発想したとき、和歌山の丹生神社で開催される「笑い祭」も気になってきま
       した。
       あの祭りの由来は、寝坊して、出雲での神々の会合に遅刻した丹生都姫が、祠に
       閉じこもってしまったので、村人たちが大笑いをして女神を慰めたというような
       ものだったはずです。
       
       閉じこもってしまったという表現も「死」を連想させますよね。
       
       葬儀で大笑いするというのは不謹慎なようですが、「蘇りの儀式」なのだとした
       ら、すごくしっくりきます。
       
      「笑い」にも注目してみようかな?

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