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結神社

結神社

結神社

照手姫の守り本尊が納められた観音堂

結神社

小栗判官が鎮まったとされる墨俣の八幡神社



  祭  神:天御中主尊 高皇産靈尊 神皇産靈尊 猿田彦神
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「結神社の御由緒
       結神社は、平安時代末期の嘉応年間(1169年頃)の創建で、一説には奈
       良時代よりやや古いとも言われ、当地方では大変古い神社で、結大明神と呼
       ばれていました。
       その御祭神は神代最初の神様で、高皇産靈尊 天御中主尊 神皇産靈尊 猿
       田彦神(江戸時代に合祀)であり産霊の神の「むすび」は産み出す即ち生産
       の意味で、神代に初めてこの世の中のすべての物を産み、造り出し、また
      『むすぶ』はすべてのことをまとめる和合円満にとの意味です。従って生産・
       増産の神、縁結びの神として霊験あらたかな神様であります。
       私たちの先祖は結大明神を崇敬し、むすびの神の名を里の名に取り入れ、や
       がては結村と称するようにしました。
       人々は五穀豊穣と無病息災、一かの繁栄を念じて参拝することを忘れなかっ
       たのです。
       結大明神の社名は古くから使われて親しみ深いものでしたが、明治初年の神
       社改めによって結神社と改称しました」
      「愛と信仰のロマン伝説
       照手姫ゆかりの結大明神と観音堂
       応永三十年(1423)照手姫(武蔵圀相模の郡代横山の娘)と常陸国結城
       の小栗判官小次郎助重との愛と信仰にまつわるロマン伝説が残っています。
       照手姫は故あって当地に止まり、守り本尊(一寸八分の黄金仏)のお告げに
       よって結大明神へ七日間祈願したところ、大明神が姫にお告げ給うに『守り
       本尊の指図に従い、汝が願望は叶えさすべし、然れども本尊は我に有縁の尊
       像なれば当社に納めよ』と告げられました。姫は小栗判官と再会できるので
       あればと、本尊を大明神に納めたところ、判官と再会することができました。
       人々は神様のあらたかな霊験を感じ、縁結びの神様と崇め信仰しました。
       現在、守り本尊であった黄金仏は、近くの町屋観音堂の菩薩像の十一面観音
       に納められ、縁結びの観音様として崇拝され、十八日を縁日として信仰され
       ています。
       平成祭データの由緒を転載します。
      「揖斐川左岸の西結町屋に鎮座。祭神は天御中主神。高産霊神。神産霊神。猿
       田彦命。嘉応年間(1169〜1172)の創建と伝え、縁結びの神として
       知られる。当社が鎮座する町屋は対岸の佐渡村とを結ぶ渡津で、往古から街
       道集落として賑わっていた。中世の文学作品である「十六夜日記」に阿佛尼
       は、心情を歌に託し祈願している。また、歌枕の地として知られ、一条兼良
       は「藤川の記」に、能因法師は「詞花集」に詠んでいる。このように名士高
       僧や往還の人々が旅の安全を祈願し、深閑とした社叢で休息をとった街道の
       宮である。祭礼日は10月19日。当社の御神像17躰と寛文5年(166
       5)花村太左衛門が寄進した石造狛犬一対は町文化財に指定されている。ま
       た、この宮は明治の河川改修以前は町屋西神子殿にあったが、社殿が河川敷
       となり、明治36年に現在地の東神子殿に移転された。尚、永享〜嘉吉年間
       (1429〜44)頃、小栗判官と別れた照手姫は当社に祈願して判官に再
       会したという伝承があり、「照手姫の宮」と俗称されている。」
  住  所:岐阜県安八郡安八町西結697番地の2
  電話番号:
  ひとこと:この神社に参拝したのは、『説教節小栗判官』の最後に、こんな文章があっ
       たからです。
      「小栗判官をば、美濃の国、安八の郡、墨俣、垂井おなことの、神体は正八幡、
       荒人神と、お斎いある。同じく、照手の姫をも、十八町下に、契り結ぶの神
       と、お斎いある。
       
       つまり、小栗判官の妻・照手姫が祀られているってことでしょうね。
       ちなみに小栗判官の祀られた八幡神社とおぼしきお社にも参拝しましたが、
       案内板もなく、伝説が残っているというわけでもないようです。
       
       このあたりは照手姫の方が有名なのかもしれません。
       
       小栗判官の物語は有名ですが、ちょっとだけ説明しておきますね。
       小栗判官は鞍馬明神の申し子として生まれ、武勇に優れ、学問の才もありま
       したが、それがゆえに高慢な性格でもありました。
       どんな女性も気に入らず、それがもとで蛇に魅入られたこともあったほど。
       
       そんな彼が恋したのは、武蔵国横山の娘、照手姫でした。
       彼女もまた、才長けた美女。
       
       しかし、二人が許しを得ず結ばれたことが気に入らない横山は、小栗を謀殺。
       娘だけを生かしておくわけにはいかないと、牢獄の船を作り、海に流したの
       でした。
       
       一方、地獄の入り口へたどり着いた判官は、閻魔のはからいで生き返ること
       になりました。
       
       しかし、体はすでにミイラ(餓鬼阿弥)化しています。
      「この仏を熊野は湯の峯温泉に浸からせてやってくれ」
       という札をつけた地車に乗せられました。
       
       彼の車はいろいろな人に引かれ、湯の峯へ近づきます。
       
       その頃、女郎宿に売られた照手姫は、女郎になることをかたくなに拒んだた
       め、下働きとしてこき使われていました。
       しかし、餓鬼阿弥の車のことを知ると、
      「この人のために車を引きたい」
       と、主人に休みを乞うたのでした。
       
       そして岐阜県の大垣から大津まで車を引き、別れるときに、
      「大垣から大津まで車を引いた、小萩(女郎宿における照手姫の呼び名)を忘
       れないでほしい」
       と手紙を残します。
       
       その後小栗は湯の峯へ到着。生き返ります。
       
       そして小萩を訪ね、二人は再会を遂げたのでした。
       
       まぁ、こんな話です。
       
       だから、照手姫がここ、安八郡(大垣)に深い関係があるというのはよくわ
       かりますね。
       
       説教節の中で、小栗判官が病にかかっていたというようなことは書かれてい
       なかったと思うのですが、地車に乗せられて引かれていることなどから、ハ
       ンセン病にかかっていたとも解釈されているようです。
       
       そして私が気になるのは、照手姫が載せられた牢獄の船。
       つまり、うつろ舟ですよね。
       
       どうにもこうにもいろいろひっかかる。
       そんなわけで、この神社に参拝したのでした。
 

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