祭 神:豊臣秀吉公 説 明:「太閤さんは、天正二年(西暦1574年)の春から長浜城の、 建築と商家の町並み造りに着手されました。その後、約十年の 間、長浜町に善政を施され、大阪や京都に移住されてからも長 浜町民との交流は絶えることなく続いていました。 この現れが、天正十九年に公布された「三百石の地租税免除」 の朱印状です。 慶長三年(西暦1598年)八月十八日に、太閤さんが伏見城 で逝去されますと、長浜町民は京都の豊國廟にならって、逸速 く豊國神社を建立しました。」 が、 「徳川幕府の政権下では、太閤さんを神格化することは許されず、 豊國神社は、京都と共に取り壊されます」 しかし、 「町役人十人衆が、太閤さんの御神像を各家庭に隠して、信仰は 続けられており、一計を案じて、寛政五年(西暦1793年) 彦根藩に『えびす宮』を建立することを願い出ます」 そして、 「太閤さんを裏に隠してお祀りしました」 そのうちに、 「明治維新となり、大正九年に、天下晴れて、『豊國神社』を名 乗った」 んだそうです。 住 所:滋賀県長浜市南呉服町2−4 電話番号:0749−62−4838 ひとこと:「太閤さん」といえば、どんなイメージがありますか? 「草履を温めた人」 「一晩で築城した人」 「立身出世の人」 という良いイメージもあれば、 「サル」 「女好き」 なんて悪いイメージもありますね。 織田信長の妹君・お市の方に嫌われたことは、有名です。 私は、歴史に詳しくはないのですが、彼についての記述を読ん でいると、学などと関係ない、「智恵」に溢れた人物だったの だと、思います。 多分、人の気持ちを読み取るのが、非常にうまい人だったんで しょう。 長浜の町民に、非常に愛されたというのが、嘘か真実かは、わ かりませんが、少なくとも、同性の気持ちを惹きつけることが 得意な秀吉公のこと。 愛されていたのではないか、と、思います。 女性には、あまり人気がなかった・・・かどうかは、知りませ んが、まぁ、もてた様子がないのは、肖像画を見れば、ある程 度、納得(?) さて、私の太閤さんへのイメージですが・・・。 大阪生まれ・大阪育ちですよ。悪いわけがないじゃないですか。 楠木正成公と並んで、大阪が誇りに思ってる武将です。