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加波山神社

kabayama




  祭  神:国常立尊 伊荘諸尊 伊荘册尊     
  説  明:栞には、
      「当社は、第十二代景行天皇の御代(約二千年前)日本武尊の御東征
      (現在の東北地方を平定)に当たり、加波山に登り、三神(天御中主
       神・日の神・月の神)を祭り、社を建て加波山天中宮が創建された
       と伝ふ。延暦二十年(西暦800年)征夷大将軍、坂上田村麿の御
       東征に際しても当社に戦勝を祈願され、大同元年(西暦806年)
       に社殿を寄進された。弘仁五年(西暦809年)には、従五位下を
       朝廷より賜り、第五十二代嵯峨天皇より多数の御神宝が奉納された
       が、現在は、天皇の御宸筆の掛軸しか残されていません。その後、
       和歌山県の、熊野山の御祭神が、樺山山頂に祀られ、新宮・本宮の
       二社が新たに創建された。奈良平安、鎌倉・室町時代には、山内に
       仏教寺院が建ち神仏混交の形になり、この頃に七百余の神々を奉る
       霊場が整えられた。江戸時代にはいると加波山大権現と称し、別当
       寺院が三社を支配するようになり、山伏・修験者の真言密教加波山
       三光流の道場・霊場として栄えた。また、加波山中宮は、水戸徳川
       家の崇敬厚く、水戸藩の領内をはじめ、県内・外の村内安全・家内
       安全・嵐除・農業・産業・開運・子授け・安産・海上安全・大漁満
       足の神社として信仰され大いに栄え現在にいたっている。明治元年
      (西暦1868年)神仏分離令により寺院は廃止され、明治六年(西
       暦1873年)天中宮・新宮・本宮の中で、由緒古く正しい加波山
       天中宮は郷社に列せられ社名を、加波山神社に改め、初代宮司に元
       水戸藩家老・鈴木石見守重義が任ぜられた。明治十一年には、参拝
       者の便宜をはかって八郷町大塚の加波山のふもとに、御拝殿を建て、
       また、明治三十四年に真壁町長岡にも、崇敬者の希望により、御拝
       殿・社務所を建て、加波山々頂・八郷・真壁の三箇所の拝殿にて御
       祈願・社務を司っている。
       尚、新宮・本宮の二社は、村社で三枝祇(さえなずみ)神社親宮・
       本宮と改め、戦後、当神社の許可をえて加波山の文字を付け加えた。」
       とあります。
  住  所:茨城県真壁郡真壁町長岡891番地
  電話番号:0296−55−3288
  ひとこと:なにしろ、修験道の匂いが強く残っている神社でした。

       さて、この神社の創建にかかわり、
      「日本武尊が、天御中主神と日の神と月の神を祀り」
       とありますが、それで、ご祭神名は、といいますと、国常立尊・伊
       荘諸尊・伊荘册尊なわけです。

      「天御中主神と日の神と月の神」

       なまじ古事記を読んでいると、「天御中主神だけ固有の神様名なの
       か?」と感じますが、ど〜も、そうではない気がします。

      「天」の「真ん中」に、「ぬしっ」と動かない。
       そう、もともと、北極星を示す言葉だったんじゃないか?

       でもって、たまたま古事記に、「天御中主」という神様の名前がで
       てくるんで、後でごっちゃになっちゃったんじゃないか、という気
       がしますね。
       一神教の神様なら、「天の真ん中にぬしっと座ってる」という印象
       ですから、「まず始めにありき」な神様の名前を、「天御中主」と
       名づけるのも納得ですし、北極星を「天御中主の星」と呼ぶのも、
       うなずける話です。

       つまり、創建者・日本武尊は、「北極星と太陽と月の神様」を祀っ
       たんじゃないですかね。

       んでもって、後世、これらの神様を、「日本書紀にでてくる神様に
       置き換えましょう」ということになったのが、現在の御祭神の面々
       なんじゃないか、という気がします。

       天御中主神は、国常立尊と同一の神様と見られているからよし、と
       しましょう。

       しかし、伊荘諸尊は、日の神様。伊荘册尊は、月の神様とされてい
       るのは、なぜでしょう?

       記紀の記述に順ずるならば、太陽は天照大神・月は月読尊とするは
       ずですもんね。

       このあたりでは、
      「男の祖神は太陽であった。
       女の祖神は月であった。」
       という神話でもあったとか。

       そんなことから、
       太陽=男祖神=イザナギ
       月=女祖神=イザナミ
       と繋がったとか。

       それともこれは、後からやってきた、「真言密教加波山三光流」の
       仕業かなぁ。

       しかし・・・。どんな教義だったのか、資料がありません。

       この神社の「禅定祭」は、多少ヒントになるかも知れませんね。

      「加波山神社は、加波山の山内に七百三十七の神々をお祀りしており、
       毎年八月一日に山開き行い、新たな御幣を納め山閉めの八月三十一
       日までの一ヶ月間、関東、東北の加波山講の信者や、一般の崇敬者
       が神々を礼拝する禅定祭という特殊なお祭が奈良時代から行われて
       いる。このお祭は、修験道の本質である山岳を歩き回る山伏修験道
       で、我が身を苦しめて密教の秘法を解こうとする修行で、加波山三
       光流という。公卿の末、息災・増豊・降伏・愛敬を修得するもので
       ある。加波山の東・西・北の山々の中にお祀りしている神々を、先
       達行者や神職の案内で白衣をまとい、腰には鈴をつけ、金剛杖をつ
       き、六根清浄をとなえながら歩き、その道筋には天狗七飛岩、御す
       だれ石、行者もどしの石、霞ヶ関、摩利支天、剣の刃渡り、天狗の
       砂おとしなど岩から岩へ飛び、また霊窟のなかに入り、滝を登り、
       断崖にはい除き、神々のご加護をさずかり受け清い心をやしないそ
       の心で日々の生活や、仕事に従えばすべての事が叶うとされている。
       親鸞聖人の名声を妬んで調伏呪詛の護摩をたいたり、山路で待ち伏
       せて襲ったりしたが、最後には上人の徳に打たれて弟子入りした播
       磨坊弁円も、この山で修行した山伏であった。近くは、明治時代に
       天狗の術とか分身の術や様々な術をつかった、有名な普明仙人も、
       この山で修行した。現在この仙人が修行された太郎坊の霊窟の側に
       は、普明仙人を祭る普明神社が建っている」

       う〜ん、つまり、「苦痛を受ける」修行なんですね。

       苦痛を受ける修行をする人たちが、「北極星・太陽・月」に何を求
       めるでしょうか。

       太陽には灼熱の苦しみを。
       月には凍えるほどの寒さを。
       な〜んてノリだとしたら、北極星には、何を望むでしょうか?

       イメージわきませんけども。

       日本だけでなく、星と海とを関連のあるもの、と見る伝説は、いろ
       んな国にあるようです。

       星を天の海に泳ぐ天使・仙人とイメージしたのでしょうか。

       例えば、中国の「捜神記」に、海で大きな螺を拾ってきたら、その
       中から天から使わされた仙女が現れたという話も載っています。

       と、すれば、北極星が与える苦しみは、「水責め」???

       はっはっは・・・。まさか・・・。

       ただ、日本武尊自身、海神に妻を生贄にささげていますから、もし、
       北極星を海に関連付けてみるならば、太陽と月の神よりも先に、北
       極星の神を祀ったのは、わかるような気もしますね。

       実際のところ、海の民にとって、北極星の存在は、有難く、だから
       こそ、北極星の見えない夜の航海は不安だったでしょう。

       星を大事に思うのは、海の民には当然のことなんじゃないか、とい
       う気もします。

       だとしたら、この神社の開祖は、海の民だったのか・も・ね。
       としたら、海の民が、山の上に星・太陽・月を祀ったのは、灯台に
       するため・・・!!

       じゃなくて、海からやってきた民が、この地へ辿り着き、目につい
       た高い山に自分達の祖神をまずお祀りした、のかもしれません。

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