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神田神社

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  祭  神:大己貴命 少彦名命 平將門
  説  明:栞を転記します。
      「当社は社伝によると聖武天皇の天平二年(730年)の創建という。
       はじめ武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の千代田区大手町将門塚周辺)に宮居が定
       められた。
       年移り約二百年後、桓武天皇六代の皇胤なる平将門公が俵藤太に討たれ、その
       御首は京都に運ばれ東の市に晒された。やがて党類これを奪いかえり塚を築い
       て葬った所が、当社を離れること百歩の地であったという。
       次いで延慶二年(1309年)には将門公の霊を相殿に祀り、神田明神と名付
       けこの地の守護神にされた。
       天正十八年(1590年)徳川家康公は三河から江戸に移り幕政の地と定め大
       規模な城下の造成工事が開始された。
       そして元和二年(1616年)に当社は現在地に遷座し、江戸城の艮鬼門の守
       護神となり、二代将軍秀忠の命により桃山風の豪華な社殿が築かれた。
       これより歴代将軍の尊崇厚く、江戸総鎮守として面目を一新した。
       寛永三年(1626年)烏丸大納言光広卿が当社に参拝され、将門公が天慶の
       乱で朝敵とされたことを八所御霊の例に倣い、国家鎮護の社として勅免の沙汰
       が下り、神田大明神の勅額を賜った。
       また明治元年には勅祭社に准ぜられ、同七年には明治天皇が御親拝された。」
  住  所:東京都千代田区外神田2−16−2
  電話番号:03−3254−0753
  ひとこと:神田祭は、江戸三大祭りの1つ。
       江戸総鎮守といわれるだけあって、存在感のあるお社です。

       この将門公は、天下を覆そうと兵を起こし、そして、失敗した人物です。
       当然、「悪人」とされることが多いです。

       これは、御伽草子の「俵藤太物語」などに見られる論調で、この人物は、三上
       山を八巻半もする巨大ムカデとして描かれてたりします。
       で、毒をしゅーしゅー吐いたりして、典型的な、「怪物」ですな(笑)

       伝説では、将門公の首は、何ヶ月も腐らなかったとか、藁人形で作った影武者
       がいた、とか、かな〜り不気味ぃ〜な扱われ方をしています。

       現代でも、将門公の首塚の側にあるオフィスでは、誰も将門公の首塚にお尻を
       向けないように机を配置されてる・・・なぁんていう都市伝説(?)があるく
       らい、「首塚の祟り」は有名だったりしますね。

       かなり、「怖い」という印象を持たれているんじゃないでしょうか。

       しかし、この将門公という人物、冷静になると、そんな悪い人物じゃないよう
       です・・・って、そりゃそうでしょうが。

       まず、彼が「新皇」になろうとしたのは、当時の朝廷が乱れていた・・・と、
       少なくとも、将門公が判断したからだ、と言われています。
       つまり、彼は、革命家なんですよね。
       乱れた世の中、革命家が出てくるのは当然。
       しかも、この将門公たるや、加藤剛そっくりの男前!!・・・ってのは、NH
       K大河ドラマですね。どもども、すいません。

       まぁ、そういうわけで、この人物も、「体制側」から見るか、「庶民側」から
       見るかで、かなり違う人物なんでしょう。

       ただ、私が面白いと思うのは・・・。

       この人物が朝廷に反旗を翻したのは、朱雀天皇の御世。

       朱雀天皇ってのは、醍醐天皇の後に皇位についた人物です。
       んでもって、醍醐天皇は、菅原道真を左遷し、その祟りてきめんで亡くなって
       しまった・・・とされる、ある意味、悲劇の天皇です。

       そんな時代。
       この、現代でも恐れられている人物「将門公」は・・・、死後、朝廷を脅かし
       たような形跡がないんですよ。

       朱雀天皇は確かに24歳という若さで弟(村上天皇)に譲位してはいますが、
       その在位中、「祟り」と思われるような天変地異や疫病流行があったわけでは
       ないようです。

       同じく「天皇になるべきであったかも知れない人物」であり、「でも、地方に
       配流されちゃった」・・・という、早良親王や、
      「出世街道まっしぐら」なのに、「地方に左遷になっちゃった」という、菅原道
       真公は、死後、異例の(?)出世をしているにも関わらず、将門公は、特に、
       死後尊称を与えられたということもないようです。

       なぜ?

       もしかしたら、将門公が活躍したのは「関東」で、朝廷から遠かったのが原因
       かもしれないですけどね。

       でも、あれだけ道真公の祟りを恐れた時代、将門公ほどの人物を志半ばに倒し
       ておいて、全く平気のへ〜・・・ってのも、何か違和感を感じるのです。

       ・・・祟りを恐れるようになるまでには、いろんな要素があるような気がしま
       す。

       まず、その人物の死(もしくは配流・左遷)が、不当である、と思われること。
       ・・・その為には、世間の同情なんかも不可欠でしょう。

       そして、その人物に相当の「力」がある、と思われているということではない
       でしょうか。

       ・・・将門公に、このどちらかの要素(他の要素かもしれないけど)が、足り
       なかったのだとしたら、前者ということになります。
       彼は関東をほぼ制覇してたわけで、その力は、なかなかのものだったでしょう
       から。

       としたら、当時の・・・京の・・・人々は、将門公が「新皇」を名乗ることは、
      「むわ〜〜〜〜ったく不当!!」
       と感じていたということなのでしょうね。

       それを、当時の関東の人々はどう感じていたのか、私はそっちが気になります。

       現在これほど恐れられている、将門公の祟りは、
       当時の京都の人々が、将門公に対してとっても冷たかったことを恨む、
       当時の関東の、将門公を慕う人々の怨念。

       ・・・だったりして・・・(笑)

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