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久佐々神社

kusasa




  祭  神:賀茂別雷神 猿田彦命 大歳神 速素戔嗚尊 應神天皇 
  説  明:境内看板によりますと、
      「延喜式内社で賀茂別雷神を祭神としている。
      『日本書紀』『続日本紀』にある来狭々村、玖左佐村は、この付近を中心とした地域
       で、能勢郡の郡館が設けられたところであり、また贄土師部がいて朝廷の膳部の清
       器を献上していたので、古くは土師部の祖天穂日命を祀っていたともいう。
       境内には立春に花開く一華草(セツブンソウ)があって、江戸期叡覧の後、尚書に
       命じて記されたとある」
       とあります。
       平成祭礼データによりますと、
      「当社は和銅六年(七一三年)創建、延喜式内の能勢三社の一つの神社で官幣小社に
       列せられ、昔から大宮と称し、近郷の崇敬厚く、草々明神とも云われた。社名は古
       来から地名に因んで久佐々神社と称したが享保年間(一七二〇年ごろ)、宿野大明
       神と改め、更に享保十八年八月、正一位久佐々神社と復称した。
       地名の久佐々は「日本書紀」巻十四巻雄略天皇の条「摂津国来狭々村云々」と見え、
      「続日本紀」巻六元明天皇の条「玖左佐村山川遠隔道路嶮難、由是大宝元年始建館舎、
       雑務公文准一郡例云々」とあり、当社はこの館舎の地であり、郡司によって奉斎せ
       られたものである。明治五年、郷社に列せられ、同四十一年五月、神饌幣帛料供進
       社の指定をうける。明治四十年、大字宿野、大里、柏原、片山、平通、下田の各神
       社をここに合祀した。」
       とあります。
  住  所:大阪府豊能郡能勢町宿野274−1
  電話番号:
  ひとこと:「来狭々村」が、日本書紀にどのように記されているんでしょうか?

       探してみると、雄略天皇紀に記載されていました。
      「十七年春三月二日、土師連らに詔して、『朝夕の膳部に用いる清い器(かわらけ)
       を進上せよ』と言われた。そこで土師連の先祖の吾苟(あけ)が、摂津国の久佐々
       村、山背国の内村・伏見村、伊勢国の藤方村と丹波・但馬・因幡の私有の部曲(か
       きべ)をたてまつった。これを名付けて贄の土師部という。」

       つまり、この辺りには、「土師連の先祖・吾苟」が、個人的に使役していた、土器
       造りの人々が住んでいたと受け取ってよさそうですね。

       良い土が採れたんでしょう。

       ちなみに、「贄の土師部」という言葉なのですが、「贄」とはもともと、「目上の
       人に対する進物」を言います。

       三省堂「漢辞海」によりますと、
      「目上の人に始めてお目にかかるときに持参する手土産。のち、先生に入門するとき
       の進物や学費をいう」
       と説明されています。

       つまり、「贄の土師部」とは、「目上の方に捧げるための土器を作る人々」という
       意味になりそうですね。

      「特別なものを作る」という意味で、ある種特権的な土師部だったかもしれません。

       そんなわけですから、境内案内板にあるように、「古く土師部の祖天穂日命を祀っ
       ていた」可能性は、十分ありそうです。

       さて、この天穂日命。
       どんなイメージを持っていますか?

       この神は、天照大神と素戔鳴尊が誓約した時に生まれた、5柱の男神のうちの一人
       です。
       古事記では、2番目に、日本書紀では、2番目だったり4番目だったり最初だった
       りに生まれ出られた神様です(笑)

       この神々の生まれは複雑で(笑)
       天照大神の子供なのか、素戔鳴尊の子供なのかは、解釈が別れてしまいそうなとこ
       ろなのですが、素戔鳴尊が、天照大神の所持する珠を口に含んで、吐き出した息か
       ら生まれたとされています。

       一般的には、「天照大神の御子」ということになっています。

       さて、この時生まれた男神のうち、天忍穂耳命は、「天降り」した、瓊々杵尊の父
       親ということで有名です。

       そして、天穂日命は、
      「出雲へ、国譲りの交渉へ行ったはよいが、大己貴命におもねって、三年も復命しな
       かった」
       ということで、有名になってしまっています(^^ゞ

       つまり、「裏切り者」というレッテルを貼られた、と考えてもいいんじゃないでし
       ょうか。

       また、日本書紀一書(第二)によりますと、
       高天原からの使者・経津主神と武甕槌神は、
      「国を譲るか否か」と、大己貴命に居丈高に問うたはよいのですが、

       大己貴命に、
      「なんで、いきなりやってきて何言うてるだ。おぬしら、ちとおかしいのではないか?」
       と手厳しく切り返されています。

       そこで、高天原のドン・高皇産霊神が登場。
      「ただで国を譲ってくれというわけじゃないんだよ。
       ただ、表向きの政治は、わしらに任せてくんないかなぁ?
       裏のことは牛耳ってもらって構わないから。
       豪邸も建てるよ〜。遊行費のことも任せておいてよね。
       運転手付きリムジンも用意しまっせ〜」
       などと、おいしい条件を提示するわけです。

       そして、最後に、
      「あなたの祭祀を掌るのは、天穂日命がいたします」
       と言っています。

       つまり、
      「天穂日は、あなたの秘書にしますから」
       ということになるでしょうか?

       おかしいですよね?
       天穂日は大己貴命におもねって、高天原に復命しなかったんじゃ?
       大己貴命にくっついてる人間に対して、高天原が、何かの役職を任命するという
       のはいかにも不自然です。

       つまり、私は、天穂日命は、単に国譲りの交渉に行って、単に大己貴命におもね
       って、単に高天原に復命しなかったのじゃないと想像してます。

       客観的な事実と思われるところだけを抜き出しましょう。

       ・高天原サイドは、天穂日命に出雲行きを命じる
       ・出雲サイドは、高天原からやってきた天穂日命を受け入れる
       ・天穂日命は、出雲に居ついてしまう
       ・出雲国譲りに際して、天穂日命は、高天原サイドから、
       「出雲で大己貴に使えなさい」と命令される

       どういうことでしょうか?

       まず考えられるのは、
       天穂日命は最初から、スパイ目的で出雲へやってきた。
       出雲側に寝返ったように見せかけたが、実は高天原とその後も連絡を取っていた。
       なんてことでしょうか。

       次には、
       話が多少前後しているが、天穂日命は、高天原と出雲の友好のための、「人質」
       なのである。
       てなことです。

       その他には、こんなことが考えられます・・・。

       天穂日命は、高皇産霊神の、大のお気に入りだった。
       だから、高皇産霊神は、大いなる期待を持って、天穂日命を出雲国譲りの交渉に
       行かせた。
       ところが、天穂日命は、大己貴命の人柄に心酔してしまう。
       天穂日命は、悩む。
      「高皇産霊神には大恩がある。しかし、私が心から敬い、この将来ずっと、従って
       行きたいのは大己貴命だ・・・。」

       武力が勝っているのは高天原のほうだ。戦争になったら、出雲は無惨にも負けて
       しまうだろう!!

       そして三年後、待ちくたびれた高皇産霊神は、経津主・武甕槌神の使者を遣わし
       てきた。
       高皇産霊神からの伝言は、
      「何をやっているのだ?国譲りの交渉は諦めた。その国はわしらの武力でけちょん
       けちょんにやってまうから、おまえは早いこと逃げてきなさい」
       である。

       天穂日命は決心した。
      「私は大己貴命と命運を供にします!!」

       高皇産霊神は驚愕した。
       あんなに可愛がってやった天穂日命が裏切りおった!!
       悔しい(T_T)
       しかし、悲しいことに、高皇産霊神は、天穂日命を殺す決心がどうしてもつかな
       かったのだ。

       そこで、高皇産霊神は、大己貴命のために豪邸を造り、そこに転居してくれるよ
       う頼んだ。
       一旦敵となった大己貴命と単純に友好を結ぶのは最早難しかったから、このよう
       にして名目上だけ、大己貴命の旧邸宅を奪ったのである。

       そして、天穂日命は、大己貴命と自分の橋渡しをさせることにした。
       そうすれば、昔のように、天穂日命と語り合う機会も得られるであろうと。

       高皇産霊神は、目を閉じ、深いため息をついた。
      「私はもう若くないのだ」

       ・・・・・・・・・

       さて、どうでしょう?

       ただ、天穂日命の子孫には、「気が優しくて力持ち」な、野見宿禰が出ています。
       天穂日命も、力持ちで気の優しい人物だったんじゃないでしょうか?

       とすると、第一案のように「スパイ」だなんて考えられないし、第二案みたいに、
      「人質になるようなかぼそい男」とも、なんか考えづらいんですよね。

       だから、私は、第三案に一票!!

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